吉川『三国志』の考察 第076話「白門楼始末(はくもんろうしまつ)」

曹操(そうそう)の包囲を受け続けた末に、下邳(かひ)城内の呂布(りょふ)は味方の部将たちの信頼を完全に失い、とうとう彼らの手で捕縛される。

曹操は下邳への入城を果たし、白門楼(はくもんろう)において呂布や陳宮(ちんきゅう)を処刑するが、劉備(りゅうび)の願いを聞き入れる形で張遼(ちょうりょう)の命は助けた。

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第076話の展開とポイント

(01)下邳の城外 曹操の本営

夜明けごろ曹操は侍者に起こされ、下邳の城中から侯成(こうせい)が降伏を乞うてきていると伝えられる。すぐに会って子細を聞くと、侯成は呂布の厩舎(うまや)から盗んできた赤兎馬(せきとば)を献じた。

さらに曹操は、魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)のふたりも城中にあり、内応する手はずになっていると聞き限りなく喜悦。ただちに降伏を促す檄文(げきぶん)をしたため、同文の矢文を何十本となく城中へ射込ませる。

この矢文の中で、曹操が大将軍(だいしょうぐん)を称していたのがよくわからなかった。ここでは何か別の肩書きを使うべきだったのでは?

(02)下邳

矢文が射込まれたことを合図に、十数万の曹操軍が一度に城へ攻めかかった。呂布は早暁から各所の攻め口を駆け回り、自ら督戦にあたったり、戟(げき)を振るって城壁に近づく敵の撃退に努める。

そこへ厩舎の者から赤兎馬が姿を消したとの報告がある。呂布は、搦(から)め手(城の裏門)の山に登って草でも食っているのだろうと言い、早く捜してつないでおけとも言うが、敵の攻撃が激しく、叱っている暇(いとま)もない。

ようやく日も西に傾くころ寄せ手は攻めあぐね、やや遠くへ退いていく。早朝から飲食もせず奮戦を続けていた呂布はホッとひと息つき、一室の榻(とう。長椅子。ソファーに似た寝台)で居眠るともなくうつらうつらしていた。

そのとき魏続が音もなく床を這(は)い寄り、手を伸ばして榻の下から戟の柄を強く引っ張る。居眠っていた呂布は不意に支えを外され、半身をのめらせた。

魏続が奪った戟を後ろへ放ると、それを合図に一方から宋憲が躍り出し、呂布の背を突き飛ばす。呂布は床に倒れながらも両足でふたりを蹴上げたが、とたんに兵士が部屋に満ち、折り重なって縛り上げた。

兵士が城頭の櫓(やぐら)で白旗を振り、東門を開いたと、寄せ手に向かって合図を送る。曹操の大軍は一度に東門からなだれ入ったが、用心深い夏侯淵(かこうえん)は敵の詭計(きけい)を疑い、容易に軍勢を動かさない。

この様子を見た宋憲は城壁から大きな戟を投げる。呂布が多年戦場で用いていた画桿(がかん。柄の部分に彩画が施されている)の大戟(おおほこ)だった。

同じく控えていた夏侯惇(かこうじゅん)も敵方の分裂を確信して城内へ進み、そのほかの部将たちも続々と入城する。

呂布が捕らえられたことが伝わり、城内は鼎(かなえ)の沸くがごとき混乱を呈した。

高順(こうじゅん)と張遼は変を知ると、部隊をまとめて西門からの脱出を試みる。しかし洪水の泥流は深く、進退窮まり、ことごとく生け捕られてしまう。

南門にいた陳宮も防戦に努めたが、徐晃(じょこう)に出会って捕らえられた。

下邳城は日没とともにまったく曹操の掌中に収められ、一夜明けた城頭や楼門の東西には満々と彼の旗が翻った。

(03)下邳の城内 白門楼

曹操は主閣の白門楼の楼台に立ち、即日軍政を布(し)いて人民を安んじたうえ、劉備を請じて傍らに座を与え、軍事裁判を開く。

『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(白門楼は)下邳城の西門の櫓」だという。

また『完訳 三国志』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、金田純一郎〈かねだ・じゅんいちろう〉訳 岩波文庫)の訳注によると、「(白門は)『通鑑(つがん)』(巻62、建安〈けんあん〉2年12月の条)の注によれば下邳の城の南門である」という。

ここは訳者注(訳注)に異同があるが、どう解釈すべきなのかわからなかった。

『後漢書』(呂布伝)の李賢注によると、「酈道元(れきどうげん)の『水経注(すいけいちゅう)』(巻25)に(下邳城の)南門を白門といい、魏の武帝が陳宮を捕らえた場所である」という。(2024/11/2追記)

最初に引き出された呂布が縄目がきついと訴えると、曹操は武士に命じて手首の縄を緩めてやろうとする。すると主簿(しゅぼ)の王必(おうひつ)があわてて、滅相もないことだと遮った。

『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第19回)では王必の発言は見えない。

陳宮もまた階下に引き出され、曹操の面をしばらく見つめる。

井波『三国志演義(2)』(第19回)では、陳宮の前に高順が引き出されている。問いかけに何も答えない高順に腹を立てた曹操が、彼を斬れと命じてもいた。

曹操はいくらか言葉を交わすが、陳宮には命を助けてもらおうという気はなく、かえって処刑を急かす。

ここで陳宮が曹操との出会いなどを回想していたが、今の曹操が「大将軍曹丞相と敬われ……」というところは引っかかる。曹操は丞相であり、大将軍を兼ねていたわけではないのだが……。

陳宮は立ち上がり、白門楼の長い石段を下りて死の蓆(むしろ)に座る。あべこべに陳宮に促され刑吏の戟が振り下ろされると、噴血の下に首は4尺(せき)も飛んだ。

曹操は酒が醒(さ)めたように、続いて呂布を成敗するよう命ずる。

呂布は急にわめきだして助命を乞うが、曹操から小声で尋ねられた劉備は是非を言わず、かつて呂布が養父の丁原(ていげん)や董卓(とうたく)を殺害したことに触れた。

呂布は劉備を罵るが、曹操が一令すると刑吏らは縄を持って近づき、その場で縊殺(いさつ)してしまう。

やがて張遼が引き出されると、劉備は突如立ち上がり助命を乞うた。曹操はこれを容れたが、張遼は恥じて自害しようとする。その手から剣を奪って止めたのは、かねて彼を知る関羽(かんう)だった。

曹操は平定のことを終えると、陳宮の老母と妻子を捜し求め、軍勢を収めて許都(きょと)へ帰った。

井波『三国志演義(2)』(第20回)では、張遼は中郎将(ちゅうろうしょう)に任ぜられ関内侯(かんだいこう)に封ぜられたとある。

管理人「かぶらがわ」より

万夫不当の武勇を誇った呂布でしたが、ついに下邳で処刑されました。大きすぎる野望を持ったことが、ここに至った主因なのでしょうか?

呂布という人が一介の将軍で満足できたのかどうかはわかりませんが、そういう生き方もあったのではないかと思います。この人には何か感ずるものがあるのですよね……。

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『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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