曹操(そうそう)の思惑通り、袁紹(えんしょう)の遺子たちの対立が激化し、ついに袁譚(えんたん)が曹操に取り込まれる。
袁尚(えんしょう)とともに鄴城(ぎょうじょう)を守っていた審配(しんぱい)は、曹操が運河まで築いて大量の兵糧を運び入れる様子に不安を募らせ、ある献言を行う。
第119話の展開とポイント
(01)平原(へいげん)
建安(けんあん)8(203)年の冬10月の風とともに、「曹操きたる」の声は西平(せいへい)のほうから枯れ野を掃いて聞こえてくる。
袁尚は平原で兄の袁譚を包囲していたが、にわかに囲みを解き鄴城へ退却しだした。
これを見た袁譚は袁尚の後備えを追撃。殿軍(しんがり)の部将の呂曠(りょこう)と呂翔(りょしょう)をなだめて味方に手なずけ、降人として曹操の見参に入れる。
曹操は袁譚の武勇を褒め、後で自分の娘を娶(めあわ)せた。
★『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)では、「建安8(203)年10月、曹操が黎陽(れいよう)に到着し、息子の曹子整(そうしせい)のために袁譚の家と縁組みをした」とある。
この話だと娶(めと)るのは袁譚の娘になるわけで、吉川『三国志』は設定を変えている。なお『三国志演義(2)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第32回)では、曹操が娘を袁譚に娶せる約束をしたくだりだけが出てきて、次の第33回で約束が破棄されるという展開になっている。
すっかり喜悦している袁譚を郭図(かくと)が諫める。郭図は、曹操が呂曠や呂翔を列侯(れっこう)に封じてひどく優待しているのは、河北(かほく)の諸将を釣らんためだと言い、あなたに自分の娘を娶せたのも深い下心があればこそだと指摘。
袁譚は彼の勧めに従い、曹操に付いて黎陽へ引き揚げた呂曠と呂翔に、密かに将軍の印を届けさせる。
(02)黎陽
袁譚が作らせた将軍の印は、ほどなく呂曠と呂翔の手に届いた。ところが、すでに曹操に心服していたふたりはその旨を伝えてしまう。すぐに曹操は狙いを看破したが、このときから心密かに、いずれ長くは生かしておけぬ者と、袁譚への殺意を固める。
冬のうちは戦いもなく過ぎたが、曹操はこの期間に数万の人夫を動員。淇水(きすい)の流れを引き、白溝(はくこう)へ通ずる運河の開削を励ましていた。
翌建安9(204)年の春に運河は開通し、おびただしい兵糧船が水に従い下ってくる。その船に便乗し、都(許都〈きょと〉)から許攸(きょゆう)もやってきた。
(03)鄴城
審配は曹操が運河を造ったことを見て、その野望の大きさを察する。
そこで袁尚に献言し、武安(ぶあん。武安県長〈ぶあんけんちょう〉)の尹楷(いんかい)に檄(げき)を送って毛城(もうじょう)に兵を込めたうえ、(上党郡〈じょうとうぐん〉から)兵糧を呼び寄せた。
さらに沮授(そじゅ)の子の沮鵠(そこう)を大将とし、邯鄲(かんたん)の野に大規模に布陣させる。一方で、袁尚自身は審配を鄴城に残して本軍の精鋭をひきい、急に平原の袁譚へ攻めかけた。
(04)黎陽
袁譚から救援を乞うとの早打ちを受けると、曹操は会心の笑みを漏らす。鄴城へ出るよう曹洪(そうこう)に命じて一軍を急派し、自身は毛城を攻めて尹楷を討ち取った。
(05)邯鄲
続いて曹操は邯鄲で大激戦を展開したが、沮鵠の大布陣もついに壊乱のほかはなかった。
(06)鄴城
曹操は先に包囲にかかっていた曹洪と合流。総掛かりに攻め立てること昼夜7日に及んだが陥せない。地下を掘り進んで一門を突破しようとしたが、それも敵の知るところとなり、1,800の兵が地底で生き埋めになる。
★井波『三国志演義(2)』(第32回)では曹操が密かに地下道を掘らせたくだりに、もとは鄴城の東門を守っていて、後に曹操に投降した馮礼(ふうれい)という部将が絡んでいた。また、馮礼とともに土中で亡くなったのは300人の兵士とある。
曹操は攻めあぐみながらも、敵将の審配の防戦ぶりに感嘆した。だがこのとき審配は、前線遠く敗れて帰路を遮断された袁尚の軍勢を、怪我なく城中へ迎え入れるという難題にぶつかっていた。
袁尚の軍勢は陽平(ようへい)まで来て通路が開くのを待っていたが、その通路は城内から切り開かねばならない。
審配は主簿(しゅぼ)の李孚(りふ)の献策を容れ、城内にいた数万の女子どもや老人を追い立て、城門を開き一度に追い出す。
続いて城兵も出たが、この計はすでに曹操に看破されており、諸所に伏せられた大軍によって完全に殲滅(せんめつ)されてしまった。
曹操は逃げる城兵と一緒に城内へ入る。その際、兜(かぶと)の頂にふた筋まで矢を受けて一度は落馬したが、すぐに馬に飛び乗り物ともせず、将士たちの先頭に立った。
しかし、審配は毅然として防御の采配を振るう。そのため外城の門は陥ちても内城の壁門は依然として堅く、曹操を嘆かせた。
(07)陽平
曹操は手を替え、一夜まったく兵の方向を転ずると、滏水(ふすい)の境にあった陽平の袁尚を攻める。
まず弁才の士を遣り、袁尚の先鋒たる馬延(ばえん)と張顗(ちょうぎ)を味方へ誘引。このふたりが裏切ったので、袁尚はひとたまりもなく敗走した。
(08)濫口(らんこう。藍口)
袁尚が濫口まで退却し要害に布陣していると、四方から焼き打ちを受ける。ここで進退窮まり、ついに降伏して出た。
曹操は快く許し、全軍の武装を解かせて1か所に留めておく。だがその晩、徐晃(じょこう)と張遼(ちょうりょう)を差し向け袁尚を殺害しようとする。
袁尚は間一髪の危機を辛くも逃れ、中山(ちゅうざん)方面へ逃げ走った。このとき印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)や旗印まで捨てていったので、曹操軍の将士たちからよい笑い物にされた。
(09)鄴城
曹操は大挙して再び城攻めにかかる。今度は内城の周囲40里にわたって漳河(しょうが)の水を引き、城中を水攻めにした。
★井波『三国志演義(2)』(第32回)では、漳河の水を注ぎ込むよう献策したのは許攸。
先に袁譚の使いで来て曹操のもとに留まっていた辛毘(しんび。辛毗)は、袁尚が捨てていった衣服や印綬、旗印などを槍(やり)の先に揚げ、城中の人々に降伏を勧める。
審配はこれに応え、城中に人質としておいた辛毘の妻子一族40人ほどを櫓(やぐら)に引き出し、その首を斬っていちいち投げ返す。辛毘は悶絶(もんぜつ)し、兵に抱えられて後陣へ引き下がった。
このあと辛毘は無念を晴らすため、審配の甥の審栄(しんえい)に矢文を送り、首尾よく内応の約を結ぶ。こうして、とうとう西門の一部を内から開かせることに成功した。
★井波『三国志演義(2)』(第32回)では、もともと審栄が辛毗と親しかったとある。
冀州の本城はここに破れ、滔々(とうとう)と濁水を越えて曹操軍が内城へ踏み入る。審配は最後まで善戦したが、力尽きて捕らえられた。
曹操はその人物を惜しんで仕官を促すも、きっぱりと断られる。審配は袁氏の廟地(びょうち)を拝したあと首を打たれた。
管理人「かぶらがわ」より
まったく連携を欠く袁譚と袁尚の兄弟。審配の奮戦もむなしく、ついに鄴城は陥落しました。ホント袁氏兄弟は対応が軽いというか、行き当たりばったりですよね……。
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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