広大な蜀(しょく)の地を手にした劉備(りゅうび)に対し、孫権(そんけん)も当然のごとく、荊州(けいしゅう)返還問題の決着を迫る。
使いを命じた諸葛瑾(しょかつきん)が戻り、劉備が荊州のうち3郡の返還を認めたとの報告を受けると、孫権は官吏に軍勢を付けて差し向けた。ところが、みな関羽(かんう)の配下に追い払われてしまう。
第205話の展開とポイント
(01)成都(せいと)
ある日、劉備は、やや狼狽(ろうばい)の色を眉にたたえながら、諸葛亮(しょかつりょう)を呼んで言った。
「先生の兄上が蜀へ来たそうではないか」
諸葛亮は、昨夜客館に着いたようだと話し、もとより荊州の問題で見えたのだろうと言う。そして座へ寄り、劉備の耳元に何かささやく。
(02)成都 諸葛瑾の客館
その晩、諸葛亮は不意に兄の諸葛瑾を訪ねる。
諸葛瑾は声を放って大いに泣き、妻子一族がみな呉(ご)で投獄されたと話す。
諸葛亮は、お気遣いには及びませんと言い、君に申し上げ、きっと荊州は呉へ還しますと応じた。
(03)成都
翌日、諸葛瑾は密かに劉備と会い、孫権の一書を呈する。劉備はそれを披見し、たちまち色をなす。諸葛瑾はハッとした。そばにいた諸葛亮も目を見張った。
劉備の手にある書簡は引き裂かれ、その眸(ひとみ)は天の一方を見て、独り言にこう叫ぶ。
「無礼なり孫権――。もとより荊州はいつか呉へ還さんとは思っていたが、汝(なんじ)いたずらに小策を弄(ろう)し、わが夫人(つま)を欺いて呉へ呼び返すなど、玄徳(げんとく。劉備のあざな)の面目を無視し、夫婦の情を虐げ、いつかはこの恨みをと骨髄に刻んでいた心を知らないかっ!」
「むかし一荊州にありしときだに、汝ごときは物の数としていた我ではない。いわんや今、蜀四十一州を併せて精兵数十万、肥馬無数、糧草は山野に蓄えて、国人(くにびと)みな時に当たるの覚悟を持つ。汝いかに狡知(こうち)を弄すとも、力をもって荊州を取ることを得んや」
ここで諸葛亮が面を覆って嘆き悲しみ、兄と妻子一族のため配慮を求める。
すると劉備も次第に感情を抑制し、荊州のうち長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡だけを呉へ還すと言いだす。
(04)荊州(江陵〈こうりょう〉?)
結局、諸葛瑾はその趣を記した劉備の書簡をもらい、山羈(さんき。山の旅)舟行数十日、荊州へ着くや城を訪れ関羽と対面した。関羽のそばには養子の関平(かんぺい)が侍立していた。
★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると「荊州城は地名で(ここでは)江陵を指す。後漢(ごかん)末、関羽が荊州を守ってきたときここに駐屯していた」という。
この解説により、最近の荊州(城)がどの城のことなのかという疑問もだいぶ解けた気がする。ただ、この項目は『三国志演義』(第73回)の荊州城が対象になっていて、上の記述に対応する『三国志演義』(第66回)を対象にしたものではなかった。
結局、荊州城を巡る『三国志演義』や吉川『三国志』のわかりにくさは解消されないままだ。劉備の入蜀時には襄陽にいたように見える諸葛亮と関羽だが、後に諸葛亮が張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)らと蜀へ援軍に駆けつけた際は、公安(こうあん)から出発しているようにも見える。さらにこの第205話あたりの記述では、確かに関羽は江陵にいるように見える。「荊州へ行く」という書き方ではなく、「荊州の○○へ行く」というふうに、明確に街(城)の名を記すようにしてほしかった。
諸葛瑾は劉備の書簡を示し、3郡返還の手配を申し入れたが、関羽は呉の計略だと言って聞こうとしない。
やむなく諸葛瑾は荊州から再び成都へ向かい、劉備に訴えようとしたものの、折から病中とあって典医(てんい)が面会を許さなかった。ならばと弟の諸葛亮に会おうとすれば、郡県の巡察に出張中で、しばらくは成都に帰らないという。
★『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第66回)では、ここで諸葛瑾は劉備には会えていた。諸葛亮のほうは巡察に出ていて会えなかったという同様の設定。
(05)建業(けんぎょう)
千里の往来もむなしい旅となり、諸葛瑾は呉へ帰ってくる。
孫権は、みな諸葛亮のからくりに違いないと足ずりして怒ったが、仮に獄中につないでおいた諸葛瑾の家族は帰した。
孫権は諸官吏を荊州へ遣り、劉備が言った以上、強硬に交渉して関羽の下の地方官吏を追い払い、汝らの手で3郡の政庁を取って代われと厳命する。
もちろん軍隊もついていったが、ほど経てからそれらの官吏はみな逃げ帰ってきた。関羽の部下に追い払われたのだという。軍隊のほうはひどい目に遭わされ、生きて帰った兵は3分の1しかいなかった。
これを受けて魯粛(ろしゅく)が進言。陸口(りくこう)の塞外にある臨江亭(りんこうてい)に会宴を設け、関羽を招き、よく談じてみるという。もし彼が聞かなければ、即座に刺し殺してしまうとも。
反対する者もあったが孫権は許可し、早く行けと魯粛を励ました。
(06)臨江亭
船に兵を積み、表には親睦の使いと唱え、魯粛は揚子江(ようすこう。長江〈ちょうこう〉)を遠くさかのぼっていく。
そして、陸口城市の河港に近い風光明媚(めいび)の地、臨江亭に盛大な会宴の準備をする。一面では呂蒙(りょもう)や甘寧(かんねい)らに、関羽が見えた後の計を伝えていた。
臨江亭は湖北省(こほくしょう)にある。荊州は言うまでもなく湖南の対岸。
★このあたりの地理の説明がわかりにくい。臨江亭はいいとして、ここで湖南の対岸(にある荊州)と言っているのは、益陽(えきよう)のことではないだろうか?
湖南が現在の湖南省という意味で使われたのか、洞庭湖(どうていこ)の南という意味で使われたのかはわからないが、やはり益陽を指して荊州と呼んでいる気がする。もしそうだとすれば、史実と『三国志演義』の創作がごちゃ混ぜになった印象で、益陽を荊州と称するのはまずい。
なお井波『三国志演義(4)』(第66回)では、以下に出てくる魯粛の使者は船で長江を渡り、北岸へ上がったあと関平の尋問を受け、関平に連れられ荊州城へ行っていた。この記述なら荊州城が江陵城に見える。
魯粛の使いは舟行して江を渡った。しかもその使いは、ことさら華やかに装い、従者に麗しい日傘をかざさせ、いかにも悠暢(ゆうちょう)に会宴の招待に行く使いらしく、平和に漕(こ)いでいった。
(07)荊州(江陵?)
やがて魯粛の使いは荊州の江口から城下に入り、謹んで書を呈する。関羽は簡単に承諾して使いを返した。
関平は驚き、かつ危ぶんで諫めるが、関羽は案ずるなと応ずる。供は周倉(しゅうそう)ひとりを連れていくという。
さらに関平には、精兵500人に早舟20艘(そう)をそろえ、こなたの岸に遠く控えているよう伝える。もし父が彼方(あなた)の岸で旗を揚げて招くのを見たら、初めて舟を飛ばして馳(は)せつけてこいとも。
★井波『三国志演義(4)』(第66回)では、関羽が関平に用意を命じたのは腕利きの水兵500と10隻の快速船。
その日になると関羽は緑の戦袍(ひたたれ)を着け、盛冠花鬚(かびん)、ひときわ装い小舟に乗る。供の周倉は「桃園の義盟」以来、関羽が常に離すことなき82斤の青龍刀を持ち、主人の後ろに控えていた。
(08)臨江亭
もし関羽が大兵を連れてきたら、鉄砲を合図に呂蒙と甘寧の二軍で袋包みにしてしまおう――。これが魯粛の備えた第一段の計だった。
ところが案に相違して、関羽は常にもなく華やかに装い、供ひとりを連れてきたので、「さらば第二段の計で」と、早くも目くばせを交わし合っていた。臨江亭の庭後に屈強な武士ばかり50人を伏せ、ここへ関羽を迎えたのである。
もちろん沿道の林間、園内随所の林泉の陰にも雑兵は充満している。とはいえ、客の視野にはひと筋の素槍(すやり)の光だに、目に触れないよう隠してあった。
魯粛は拝伏して、関羽を上賓の席に据え、酒を勧め、歌妓(かぎ)や楽女(がくじょ)をして歓待させたが、話になると眸を伏せた。どうしても関羽の目を正視できない。
しかし酒が半酣(はんかん)のころ、ようやくややくつろいだ態を仕向け、荊州の返還問題に触れる。
魯粛が舌鋒鋭く急所を突くと、関羽も答えに詰まり、「家兄(このかみ)の皇叔(こうしゅく。天子〈てんし〉の叔父。ここでは劉備のこと)には、別に正当なご意見があることでしょう。それがしの与(あず)かり知ることではない」と言い逃れた。
それでも魯粛は「桃園の義」を持ち出し、あなたが与かり知らぬでは世間が通さないと畳みかける。
すると、関羽のそばに立っていた周倉が突然、家鳴りするような声で怒鳴った。
「天上地下、ただ徳ある者がこれを保ち、これを政(まつり)するは当然。あに荊州を領する者、汝の主である孫権でなくてはならぬという法があろうかっ!」
ハッと色を変じながら、関羽が席から突っ立つ。そして、周倉に持たせておいた偃月(えんげつ)の青龍刀を引ったくるように取って叱りつける。
「周倉、黙れっ。これは国家の重大事である。汝ごときがみだりに舌を動かすところではない!」
騒然と亭中は色めき立った。やにわに関羽が巨腕を伸ばし、魯粛の臂(ひじ)をつかんで歩きだしただけでなく、周倉が亭の欄まで走り、江上へ向かってしきりに赤い旗を振ったのを見たからである。
関羽は大酔したふうを装いながら、今日はひとまずお別れしようと言い、魯粛を伴い江岸まで出てきた。呂蒙と甘寧は大兵を伏せ、関羽を討ち漏らさぬようにと鉄桶(てっとう)の構えを備えている。
だが、関羽の右手には大反りの偃月刀が、また左手には魯粛がつかまれているのを見て、うかつに出るなと制し合った。
その間に関羽は、周倉が寄せた小舟に飛び乗ってしまう。そこで初めて魯粛を岸へと突っ放し、「おさらば」とひと言、岸を離れた。
交渉はここに破れ、国交の断絶は避けがたい。魯粛のつぶさな書状を奉じ、早馬は呉の秣陵(まつりょう)へ急ぎに急いだ。
呉の国都には、これと同時に別の方面から、魏(ぎ)の曹操(そうそう)が30万の大軍をもって南下しつつある、という飛報が入っていた。
★すでに秣陵は建業と改称されており、ここで秣陵の名を持ち出すのは適切でない。このことについては先の第193話(01)を参照。
管理人「かぶらがわ」より
この第205話では「単刀会(たんとうかい)」として有名なエピソードが描かれていました。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・魯粛伝)には魯粛と関羽が会見したことは見えますが、これは益陽でのこと。そのときの会見の流れは、ここで語られたものに大筋こそ似ていましたが、やはりというか、だいぶ関羽側を持ち上げぎみです。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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