龐徳(ほうとく。龐悳)との一騎討ちで負った関羽(かんう)の矢傷が悪化し、関平(かんぺい)をはじめ、幕僚も体調を心配する。
彼らが名医を捜していたところへ、呉(ご)からひとりの医者がやってくる。広く名が知られた華陀(かだ。華佗)だった。
第230話の展開とポイント
(01)樊城(はんじょう)の城外 関羽の本営
まだ敵味方とも気づかないらしいが、樊城の完全占領も時の問題とされている一歩手前で、関羽軍の内部には微妙な変化が起こっていた。
このことを知っているのは関平ら、ごく少数の幕僚だけだったものの、彼らは今も額を集め、沈痛にささやき交わしていた。
そこへひとりの参謀が奥房から走ってきて、関羽の命を伝える。明日の暁天より総攻撃を開始するという。さらに、関羽自身が出馬するともいうのだった。
人々は愕然(がくぜん)と顔を見合わせると、一同で関羽の房に出向き、もうしばらくご養生なされては、と諫める。
関羽は聞き入れようとしなかったが、その夜また大熱を発し、終夜、痛み苦しんだ。龐徳(龐悳)に射られた左臂(ひだりひじ)の傷である。あの鏃(やじり)に、死んだ彼の一念がこもっているかのようだった。
★関羽が龐徳の矢で負傷したことについては、先の第228話(02)を参照。ただ『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第74回)では、関羽は龐徳の矢を左肘に受けた後、いったんは矢傷がふさがったとある。
その後、同じく井波『三国志演義(5)』(第74回)で樊城の北門へ攻め寄せた関羽が、曹仁(そうじん)配下の500人から弓や弩(ど)の攻撃を受け、右肘に矢が命中して落馬したことになっている。そして、このとき受けた矢に毒が塗られていたとあるので、吉川『三国志』の筋書きとはいくらか異なっていた。
そのため総攻撃も、自然に沙汰やみとなる。関平や王甫(おうほ)は諸方へ人を遣り、「名医はないか?」とあまねく求めさせた。
するとここに、風来の旅医者がひとりの童子を連れ、呉の国から小舟に乗って漂い着く。沛国(はいこく)譙郡(しょうぐん)の人、華陀(華佗)という医者だった。
★ここで華陀の出身地を沛国譙郡としていたが、沛国譙県としたほうがよかったかも。
関平は喜び、まずは自分の幕舎へ丁重に迎える。華陀の名は、呉の周泰(しゅうたい)の傷を治した名医として聞いていた。
★華陀が周泰の重傷を全治させたことについては、先の第59話(04)を参照。
さっそく関平は華陀を伴い、関羽の帳中へ行く。折しも関羽は馬良(ばりょう)を相手に碁を囲んでいた。衣服を袒(かたぬ)ぎながら、傷を病む片臂を華陀の手に任せ、なお右手では碁盤に石を打つ。ふたりとも碁に熱中していて、華陀の顔すら振り向かない。
華陀は、後ろへ寄って肌着の袖口をめくり上げ、ジッと傷を診ている。侍側の諸臣はみな目を見張った。傷口はさながら熟れた花梨(カリン)の実ぐらいに膨れ上がっている。
華陀は嘆息を漏らした。
「これは烏頭(ウズ。毒草の名。トリカブト)という毒薬が鏃に塗ってあったためで、その猛毒はすでに骨髄にまで通っています。もう少し放っておかれたら、片臂は廃物となさるしかなかったでしょう」
関羽は「よいように療治してくれ」と言い、華陀に片臂を任せたまま、再び盤上の対局に余念がなかった。
華陀は薬囊(やくのう)を寄せ、中からふたつの鉄環を取り出す。そのひとつを柱に打ち、もうひとつに関羽の腕を入れると、縄をもって縛りつける準備をした。
関羽がいぶかって尋ねると、華陀は答えた。
「医刀をもって肉を裂き、臂の骨を取り出して、烏頭の毒で腐食したところや変色した骨の部分をきれいに削り取るのです。おそらくこの手術で気を失わぬ病人はありません。いかに将軍でも必ず暴れ苦しむに違いありませんから、動かぬように、しばらくご辛抱を願うわけで」
これを聞くと関羽は言い、鉄環を取っての手術を乞うた。
「何かと思えば、そのような用意か。大事ない。存分に療治してくれ」
華陀は傷を切開しに掛かった。下に置いた銀盆には血が満ちあふれ、彼の両手も医刀もすべて血漿(けっしょう)にまみれる。そのうえ、鋭利な刃物で臂の骨をガリガリと削るのだった。
関羽は依然として碁盤から目を離さなかったが、周りにいた関平や侍臣は真っ青になる。中には座に耐えず、面を背けて立った者すらあった。
ようやく終わると、酒をもって洗い、糸をもって傷口を縫う。華陀の額にも脂汗が浮いていた。
管理人「かぶらがわ」より
関羽が以前、流れ矢に左肘を貫通されたことがあったという記事は、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・関羽伝)に見えます。ですが、これは建安(けんあん)24(219)年に関羽が樊城の曹仁を攻める前のことです。
それでも、そのとき医者の荒療治を受けたことも見えますので、関羽を持ち上げるだけの創作ではありません。
ただ『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・華佗伝)によると、曹操(そうそう)の愛息である曹沖(そうちゅう)が危篤になったとき、曹操が嘆息してこう言っています。
「華佗を殺してしまったことが残念だ。そのために、この子をむざと死なせることになってしまった」
華佗が曹操の怒りを買い、許(きょ。許都〈きょと〉)で投獄されたことも本伝に見え、やがて彼が死んだこともうかがえますが、いつのことだったのかはっきりしません。
曹沖が建安13(208)年に亡くなっているので、関羽の左肘を治療したのが華佗でないことは確か。吉川『三国志』や『三国志演義』ではここで華佗を絡めることで、一段と盛り上げようとしているのでしょうね。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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