吉川『三国志』の考察 第306話「水火(すいか)」

諸葛亮(しょかつりょう)が葫蘆谷(ころこく)に大規模な拠点を築いていると伝わると、ようやく司馬懿(しばい)も動きを見せた。魏軍(ぎぐん)は部隊を繰り出すたびに勝利を重ね、蜀軍(しょくぐん)の力を侮るようになる。

そのうち司馬懿は祁山(きざん)を総攻撃すると見せかけ、自身は途中で進路を一転。息子の司馬師(しばし)と司馬昭(しばしょう)を従え、中軍の精鋭200騎のみをもって葫蘆谷を急襲する。ところが、谷の内には恐るべき罠が待ち受けていた。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

第306話の展開とポイント

(01)渭水(いすい) 司馬懿の本営

魏軍の一部は翌日も出撃を試み、若干の戦果を上げる。以来、機をうかがっては出撃を敢行するたびに、諸将がそれぞれ功(てがら)を得た。

その多くは、葫蘆(葫蘆谷)の口へ兵糧を運んでいく蜀勢を襲撃したもので、糧米や輸車、そのほかの鹵獲(ろかく)は魏の陣門に山積みされた。捕虜は毎日、数珠つなぎになって送られてきたが、司馬懿は惜しげもなく解き放した。

ここ久しく合戦もなく、長陣に倦(う)み、功名に渇していた魏の諸将は、我も我もと許しを仰いで戦場へ飛び出す。そしておのおの功を競い、必ず勝って帰った。そういう連戦連勝の日が20日余りも続いた。

「出て戦えば、勝たぬ日はない」

近ごろでは、それが魏の将士の通念になっていた。実際、往年の面影もないほど蜀兵は弱くなっている。

要するに、この原因は多くの兵を農産や土木や撫民(ぶみん)に用いすぎた結果、軍そのものの本質が低下したに違いない。また陣地移動による兵力の分散も、弱体化の因をなしているものであろう、と魏軍では観ていた。

この観測は、いつの間にか司馬懿の胸にも合理化されてくる。ある日、司馬懿は捕虜の中に蜀の一部将がいるのを見て、自ら取り調べた結果、心から左右に語った。

「戦況は急に有利に開けてきた」

その虜将の口述により、諸葛亮が今いる陣地も明らかになる。葫蘆谷の西方10里ばかりの地点にいて、目下、谷の城寨(じょうさい)の内へ、数年間を支えるに足る大量の食糧を運び込ませているのだという。

「量るに祁山には、孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)以外の諸将がわずかに守っているにすぎまい」

司馬懿はついに戦いの主動性を握って奮い立つ。祁山総攻撃の電命は、久しく閉じたる帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所、軍営の中枢部)から物々しく発せられたのである。

息子の司馬師が尋ねた。

「なぜ諸葛亮のいる葫蘆を攻めずに、祁山を攻めるのですか?」

司馬懿が、祁山は蜀勢の根本だと答えると、さらに司馬師が言う。

「しかし、諸葛亮は蜀全体の生命とも言えましょう」

すると司馬懿は言った。

「だから大挙して祁山を襲い、わしは後陣として続くが、実は、不意に転じて葫蘆谷を急襲する。孔明の陣を蹴破り、谷中に蓄えている彼の兵糧を焼き払う考えなのじゃ。兵機は密なるうえにも密を要す。あまりに問うな」

息子たちはみな服して、父の計をたたえる。司馬懿はまた、張虎(ちょうこ)と楽綝(がくりん)を呼んで言いつけた。

「わしは後陣として行くが、汝(なんじ)らはなおわが後から続いてこい。硫黄や焰硝(えんしょう。火薬)を十分に携えてくるように」

(02)葫蘆谷の近く 諸葛亮の本営

諸葛亮は日々、葫蘆の谷口に近い一高地に立ち、遥かに渭水と祁山の間を見ていた。1か月近くも、味方の負け戦のみを眺めていたわけである。

その危険なる中間地帯を高翔(こうしょう)の輸送隊がのべつ往還して、わざわざ敵の好餌となっていたのも、祁山の兵が戦えば敗れ、戦えば敗れている蜀勢も、もとより彼の意中から出ている現象で、憂暗となるものではなかった。

その日、かつて見ない大量なる魏の軍馬が、またかつて見ざる陣形をもって一団一団、さらにまた一軍、また一軍と祁山へ指して、堂々と前進していくのが遠く眺められた。

「おうっ……。ついに仲達(ちゅうたつ。司馬懿のあざな)が行動しだした」

諸葛亮は思わず叫ぶ。声は口の内だったが、語気はその面を微紅に染めた。待ちに待っていたものである。ただちに左右から一将を選んで伝令を命じ、かねて申し含めておいた事どもを怠るな、ゆめ疑うなかれと、祁山の味方へ急速に言い遣った。

(03)祁山 蜀の軍営

蜀軍は祁山に拠って以来の猛攻撃に包まれる。至るところで、屍(しかばね)に屍を積むの激戦が行われた。魏は当然、大量な犠牲も覚悟のうえの総掛かりなので、馬の蹄(ひづめ)も血潮で滑るような難攻の道を、踏み越え踏み越え中核へ肉薄する。

こういう乱軍を予想して、司馬懿は中軍の後ろから突然方向を変えて葫蘆谷へ急ぐ。彼の跡を慕って張虎と楽綝の二隊が続いた。また彼の周囲には、中軍の精鋭200ばかりと、司馬師と司馬昭の息子ふたりが寄り添っていた。

(04)葫蘆谷へ向かう司馬懿

その途中、幾回となく蜀兵が阻める。しかし何の備えもなく、狼狽(ろうばい)のまま立ち向かってくるにすぎない。2、300の小隊もあり、7、800の中隊もあった。もとよりその程度のものでは、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)の値すらない。

蹂躙(じゅうりん)、また蹂躙。司馬懿父子の前には柵もなく、兵もなく、矢風もない。ここは敵地かと疑われるくらいである。まさに無人の境を行くがごとき速さと激しさだった。

すると、やや強力な圧力が南方から感じられる。前方に立ちはだかった大将と一軍を見れば、蜀中に猛将の名のある魏延(ぎえん)。

司馬師と司馬昭や旗本の精鋭は、一団となって出鼻へ跳びかかる。司馬懿も龍槍(りゅうそう)をしごき、魏延の足元へわめき進んだ。

魏延は奮戦した。さすがに強い。一進一退が繰り返されるかと見えた。けれど、司馬懿の後ろには張虎と楽綝の二軍が続いてくる。その重厚とすさまじい戦意に押され、たちまち魏延は逃げ出す。

この日ほど、司馬懿が積極的に出たことはまれである。ここぞと必勝の戦機を見定めれば、彼も決して保守一点張りの怯将(きょうしょう)でないことは、これを見ても明らかである。

はや葫蘆谷の特徴ある峨々(がが)たる峰々も間近に見えた。魏延は敗走する兵を立て直すと、再び鼓躁(こそう)を盛り返して抗戦する。そしてそのたびに、若干の損害を捨てては逃げた。無念無念と、追い詰められていく姿だった。

けれどこれも諸葛亮の命であることは言うまでもない。ついに魏延は、甲盔(こうがい。鎧〈よろい〉と兜〈かぶと〉)まで捨てて谷の内へ逃げ込む。

さらに、かねて諸葛亮から言われていたところの、昼は七星の旗、夜は七盞(しちさん)の灯火の見えるほうへ、という指令の目印に従って走った。

(05)葫蘆谷

谷の口まで来ると、司馬懿は急に馬を止め、逸(はや)る旗本やふたりの息子を後ろに制する。そして左右の者に、2、3騎で谷の内を見届けてこいと命じた。数騎の旗本が谷の口へ駆け入る。大勢が馬首を並べては通れないような隘路(あいろ)だった。

すぐ戻ってきた旗本は、司馬懿に状況を伝える。

「谷の内を見渡すと、諸所に柵や壕(ごう)があります。また新しき寨門(さいもん)や糧倉などは見えますが、守備の兵はことごとく南山の一峰へ逃げ退いているようです」

「遥かそこには七星の旗も見えますから、おそらく諸葛亮も、いち早く谷外の本陣を彼方(かなた)へ移したものと思われます」

聞くと司馬懿は、鞍坪(くらつぼ)を打ち叩いて命令した。

「敵の兵糧を焼き尽くすのは今だ」

一道の隘路を混み合い、みな続々と谷の内へ突進する。だが司馬懿は、魏延が刀(とう)を横たえて控える姿を見ると、後ろに続く者たちに馬上から手を振って制した。

彼方に魏延の一軍が見えたことも懸念されたし、なお彼をたじろがせたものは、付近の穀倉や寨門に沿って、おびただしく枯れ柴(シバ)が積んであることだった。

本来なら「火気厳禁」の制を布(し)いていなければならない倉庫の付近に、燃えやすい枯れ柴などが山となって見えるのはなぜだろうか?

先に見届けに入った旗本たちには、その不審がすぐに不審と感じられなかったのは是非もないが、司馬懿の活眼はそれを見逃しにできなかった。

司馬師と司馬昭が逸りきるのを、なお司馬懿は抑えて言った。

「いや待て。いま通ってきた隘路こそ危ない。谷の内で動いておる間に、万一、蜀の一手があの谷口をふさぎ止めたら、我は出るにも出られない破滅に陥ろう。誤った。師よ、昭よ、早く外へ引き返せ」

司馬懿は息子たちとともに、声の限り、後へ返せ、もとの道へと、鞭(むち)を振り上げて制したが、とうてい勢いづいてなだれ込んでくる後続部隊まで、容易に指令が届かない。

その混雑のうちに、何とはなく、急に異臭が強く鼻を突いてきた。目にも染む、喉にもむせる。火を放った者は魏軍にはいない。それどころか命令の混乱で、駆け込んでくる者と引き返そうとする者とが、谷口の一道で渦巻いている騒ぎである。

時こそあれ、一発の轟音(ごうおん)が谷の内にこだました。と思うと、隘路の壁をなしている断崖の上から、驚くべき巨大な岩石が山を震わせていくつも落ちてきた。

馬も人もその下になった者は、悲鳴すら上げ得ずに押しつぶされてしまう。たちまち谷口は累々たる大石に大石を重ねて封鎖された。

いや、その程度はまだ小部分の一事変でしかない。四方の山から飛んできた火矢は、いつの間にか谷中を火の海となす。

火に追われて逃げ回る司馬懿以下、魏軍の駆け狂うところ、地を裂き、爆雷は天に冲(ちゅう)し、木という木、草という草、燃えださないものはなかった。

魏兵の大半は焼け死ぬ。火に狂う奔馬に踏まれて死ぬ者もおびただしい。火炎と黒煙の谷底から、阿鼻叫喚が空にまでこだました。

このありさまを見て、「計略は図に当たった。さあ、立ち退こう」と、心地よげに谷口へ向かっていったのは、司馬懿軍を誘い入れた魏延。ところが、すでに谷口はふさがれていたので、その魏延までも逃げる道を失ってしまう。

魏延はあわてる。部下も火に追われ、次々と倒れた。彼の鎧にも火が付いた。

魏延は髪を逆立てて、罵りやまない。

「さては孔明の奴、日ごろのことを根に持って、俺までを、司馬懿とともに殺そうと計ったに違いない。無念、ここで死のうとは!」

司馬懿父子は3人がひとつ壕(ほり)の中に抱き合い、「あぁ、我ら父子もついに、ここで非命の死を受けるのか――」と嘆き悲しんでいた。

しかし、なおこの父子の天運が強かったものだろうか。時しも沛然(はいぜん)として大驟雨(おおゆうだち)が降ってくる。

ために、谷中の大火も一度に消えてしまった。そして濛々(もうもう)たる黒霧が立ち込め、霧を吹き捲(ま)く狂風に駆られて、再び赤い火が諸所からチロチロ立ち始めると、また驚くべき雨量が地表も流すばかりに降り抜いた。

父子3人は壕の中から這(は)い上がる。どこをどう歩いたか、ほとんど意識もなく、死の谷間から外へ出た。

馬岱(ばたい)の小勢がそれを見つけ、まさか司馬懿父子とも思わず追いかけていく。だが、そのうち魏の一部隊が来たので、つまらぬ者を追っても無用と引き返す。

かくて司馬懿父子は完全に命拾いをした。彼の出会った味方の部隊の中に、張虎と楽綝の二将も救われていた。

(06)渭水 司馬懿の本営

司馬懿が渭水の本陣へ帰ってみると、ここにも異変があり、東部の一陣地は蜀兵に占領されている。それを撃退せんものと、魏の郭淮(かくわい)と孫礼(そんれい)らの一軍が、浮き橋を中心に激戦の最中だった。

司馬懿を擁した一軍が帰ってきたのを見ると、蜀軍はにわかに退却し、遠く渭水の南に陣を下げた。司馬懿は浮き橋を焼き、敵の進路を断てと命ずる。

もとよりこの浮き橋は、河流のほかの地点にも幾条となくあるので、祁山へ向かった味方が引き揚げに困るようなことはない。

その方面から続々と帰ってきた魏軍も、すべて敗北の姿を負っていた。夜通し篝(かがり)を焚き、負傷者や敗走者を北岸へ収容することに努める。

さらに司馬懿は、蜀軍が下流を越え、本陣の後ろへ迂回(うかい)する恐れがあるとして、かなりの兵力を後方へも向けた。

この日、魏が被った損害というのは、物質的にも精神的にも、開戦以来、最大のものと言えるほどだった。しかし、この戦果を見てもなお、蜀軍の内にはただひとり、天を仰いで痛涙に暮れていた人がいる。言うまでもなく諸葛亮その人である。

「事ヲ謀ルハ人ニアリ。事ヲ成スハ天ニアリ。ついに長蛇を逸せり。あぁ、是非もないかな」

彼が、司馬懿父子を捕捉して、今日こそと必殺を期していた計も、心なき大雨のために、万谷の火は一瞬に消え、まったく水泡に帰してしまった。

管理人「かぶらがわ」より

周到な下準備を経て発動された諸葛亮の大計。ただ、天はこのことを成しませんでした。この第306話で描かれた葫蘆谷の一件は、正史『三国志』には見えません。ですがそのことを踏まえても、『三国志演義』の魅せる創作のひとつだと思います。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました