268年(晋の泰始4年・呉の宝鼎3年)の主な出来事

-268年- 戊子(ぼし)
【晋】 泰始(たいし)4年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 宝鼎(ほうてい)3年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
辛未(しんび)の日(3日)
晋の司馬炎が、尚書令の裴秀(はいしゅう)を司空に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【01月】「晋の律令の完成」
丙戌(へいじゅつ)の日(18日)
晋の律令(泰始律令)が完成したので、司馬炎が、作業に携わった者の功績に応じて爵位を与え、それぞれ差をつけて帛(きぬ)を下賜する。
『晋書』(武帝紀)

⇒01月
晋の賈充(かじゅう)らが新しい律令を作り、司馬炎に上呈する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒01月
晋の賈充・鄭沖(ていちゅう)・荀顗(じゅんぎ)らが新律令(泰始律令)を完成させ、司馬炎に上呈する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【01月】
丙戌の日(18日)
彗星が軫宿(しんしゅく。二十八宿のひとつ)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
丁亥(ていがい)の日(19日)
晋の司馬炎が籍田を耕す。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
戊子(ぼし)の日(20日)
晋の司馬炎が詔を下し、律令の完成と籍田儀礼の実施に触れ、罪人の刑罰を緩めて改心を促すべく、天下に大赦を行う。また、長吏・郡丞・長史に馬を1頭ずつ下賜する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
庚子(こうし)の日(3日)
晋の司馬炎が、山陽公国の相・郎中令・陵令・雑工宰人・鼓吹車馬を、それぞれ差をつけて増員する。
『晋書』(武帝紀)

参照した原文に「陵令」があるものとないものがあり、イマイチはっきりしなかった。

【02月】
庚子の日(3日)
晋の司馬炎が、中軍将軍の官を廃止し、北軍中候の官を設置する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
甲寅(こういん)の日(17日)
晋の司馬炎が、東海の劉倹(りゅうけん)の行いが優れているため、郎に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
甲寅の日(17日)
晋の司馬炎が、中軍将軍の羊祜(ようこ)を尚書左僕射(しょうしょさぼくや)に、東莞王(とうかんおう)の司馬伷(しばちゅう)を尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)に、それぞれ任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
呉の孫晧が、左右の御史大夫の丁固(ていこ)と孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)を、それぞれ司徒と司空に任ずる。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『呉書』…丁固が尚書だったころに見た夢の話。

【03月】「王太后の崩御」
戊子(ぼし)の日(21日)
晋の皇太后の王氏(王元姫〈おうげんき〉)が崩御する。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
戊戌(ぼじゅつ)の日(2日)
晋の太保・睢陵公(すいりょうこう)の王祥(おうしょう)が薨去(こうきょ)する。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
己亥(きがい)の日(3日)
晋の司馬炎が、文明王皇后を崇陽陵(すうようりょう。文帝司馬昭〈しばしょう〉の陵)に合葬する。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
己亥の日(3日)
晋の司馬炎が、振威護軍と揚威護軍の官を廃止し、左右の積弩将軍の官を設置する。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
甲申(こうしん)の日(?日。6月1日は「丙申〈へいしん〉の日」ではないのか? 先の5月18日が「甲申の日」だが……)、朔(さく)
晋の司馬炎が詔を下し、郡国の守相(太守と国相)にいっそうの奮起を促す。任地の風俗の丁寧な観察による風紀の保持、適切な賞罰などを求めた。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
晋の太山(泰山)で石が崩れ、多くの星が西に流れる。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
戊午(ぼご)の日(?日。「庚午〈こうご〉の日」なら7月5日だが……)
晋の司馬炎が、侯史光(こうしこう)を遣わし天下を巡行させる。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
己卯(きぼう)の日(14日)
晋の司馬炎が、崇陽陵に参詣する。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
晋の青州・徐州・兗州・豫州の4州で洪水が発生し、伊水と洛水があふれ、黄河に合流する。司馬炎は、官倉を開いて被災地の救済に充てさせた。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
晋の司馬炎が詔を下し、「詔により実施されることであっても、また上奏が許可されたことであっても、それが不適切だと思えば、みな遠慮なく意見を述べよ」と言う。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
呉の孫晧が、居巣(きょそう)の東関へ出撃し、丁奉(ていほう)も合肥まで軍勢を進める。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【10月】
呉の将軍の施績(しせき)が晋の江夏に侵入し、万郁(ばんいく。万彧)が襄陽に侵攻する。

司馬炎は、太尉で義陽王の司馬望(しばぼう)を龍陂(りょうひ)に駐屯させ、荊州刺史の胡烈(これつ)が万郁を撃ち破った。
『晋書』(武帝紀)

⇒10月
呉の孫晧が晋の各地に侵攻し、施績(朱績〈しゅせき〉)は江夏に、万彧は襄陽に、丁奉は芍陂(しゃくひ)に、それぞれ軍を進める。しかし、彼らはみな晋軍に撃退された。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
呉の将軍の顧容(こよう)が晋の鬱林(うつりん)に侵攻したが、鬱林太守の毛炅(もうけい)が撃ち破り、呉の交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)と将軍の修則(しゅうそく)を斬る。
『晋書』(武帝紀)

⇒【?月】
この年、呉の孫晧は、交州刺史の劉俊と前部督の脩則らを遣わし、晋の交趾(こうし)に進攻させた。

しかし、晋の毛炅らに敗れてふたりとも戦死し、兵士は四散して合浦へ逃げ帰った。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【11月】
呉の将軍の丁奉らが晋の芍陂に侵出したが、安東将軍で汝陰王の司馬駿(しばしゅん)と義陽王の司馬望が撃退する。
『晋書』(武帝紀)

⇒?月
呉の丁奉・諸葛靚(しょかつせい)が晋の合肥を攻める。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

【11月】
己未(きび)の日(27日)
晋の司馬炎が詔を下し、王・公卿・尹および郡国の守相に、賢良方正や直言の士を推挙させる。
『晋書』(武帝紀)

【11月】
晋の司馬炎が、司馬望を大司馬に、荀顗を太尉に、石苞(せきほう)を司徒に、それぞれ任ずる。
『正史 三国志8』の年表

【12月】
晋の司馬炎が詔を下し、以下の5か条の順守を郡国に通達する。

1、身を正しくする。
2、民をいたわる。
3、孤児や寡婦(かふ。夫と死別した女性)をいたわる。
4、本業(農業)を重んじ、末業(商工業)に注力するのをやめる。
5、人事(ここでは付け届けの意)をやめる。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
庚寅(こういん)の日(28日)
晋の司馬炎が聴訟観(ちょうしょうかん)に臨み、廷尉とともに洛陽の未決囚に再尋問を行い、自ら判決を下す。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
庚寅の日(28日)
扶南と林邑の使者が晋に来朝し、献上品を捧げる。
『晋書』(武帝紀)

特記事項

「この年(268年)に亡くなったとされる人物」
王氏(おうし。文明王皇后)・王祥(おうしょう)

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