277年(晋の咸寧3年・呉の天紀元年)の主な出来事

-277年- 丁酉(ていゆう)
【晋】 咸寧(かんねい)3年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 天紀(てんき)元年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
丙子(へいし)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
丙子の日(1日)、朔
晋の司馬炎が、皇子の司馬裕(しばゆう)を始平王に、安平穆王の司馬隆(しばりゅう)の弟である司馬敦(しばとん)を安平王に、それぞれ封ずる。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
丙子の日(1日)、朔
晋の司馬炎が詔を下し、宗室の重要性を説いたうえ、衛将軍・扶風王の司馬亮(しばりょう)を宗師に任ずる。そして、なすべき行いについては、みな宗師と相談することにした。
『晋書』(武帝紀)

【01月】「呉の改元」
呉の孫晧が昨年の決定に従い、「天璽(てんじ)」を「天紀」と改元する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【01月】
庚寅(こういん)の日(15日)
晋の始平王の司馬裕が薨去(こうきょ)する。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
庚寅の日(15日)
彗星が晋の西方に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
庚寅の日(15日)
晋の司馬炎が、征北大将軍の衛瓘(えいかん)に鮮卑の力微(りきび。拓跋力微〈たくばつりきび〉)を討伐させる。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
晋の平虜護軍の文淑(ぶんしゅく。文俶〈ぶんしゅく〉や文鴦〈ぶんおう〉ともある)が、反虜である(鮮卑の)樹機能(じゅきのう)らを討伐し、みな撃破する。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
彗星が胃宿(二十八宿のひとつ)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
乙未(いつび)の日(21日)
晋の司馬炎が、雉(キジ)を射ようとしたが、麦の苗を傷めることを慮ってやめる。
『晋書』(武帝紀)

【05月】
戊子(ぼし)の日(15日)
呉の将軍の邵凱(しょうかい)と夏詳(かしょう。夏祥)が、7千余の軍勢をひきいて晋に来降する。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
晋の益州と梁州の8郡で洪水が発生し、300余人が亡くなり、邸閣(食糧貯蔵庫)の別倉が水没する。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
晋の司馬炎が、都督豫州諸軍事の王渾(おうこん)を都督揚州諸軍事に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
晋の司馬炎が、罪を犯した中山王(ちゅうざんおう)の司馬睦(しばぼく)を丹水侯に降格する。
『晋書』(武帝紀)

【08月】「晋の大改封」
癸亥(きがい)の日(21日)
晋の司馬炎が、扶風王の司馬亮を汝南王に、東莞王(とうかんおう)の司馬伷(しばちゅう)を琅邪王(ろうやおう)に、汝陰王の司馬駿(しばしゅん)を扶風王に、琅邪王の司馬倫(しばりん)を趙王に、渤海王(勃海王)の司馬輔(しばほ)を太原王に、太原王の司馬顒(しばぎょう)を河間王に、北海王の司馬陵(しばりょう)を任城王(じんじょうおう)に、陳王の司馬斌(しばひん)を西河王に、汝南王の司馬柬(しばかん)を南陽王に、済南王の司馬耽(しばたん)を中山王に、河間王の司馬威(しばい)を章武王に、それぞれ移封する。

さらに、皇子の司馬瑋(しばい)を始平王に、皇子の司馬允(しばいん)を濮陽王に、皇子の司馬該(しばがい)を新都王に、司馬遐(しばか)を清河王に、それぞれ封じ、鉅平侯(きょへいこう)の羊祜(ようこ)を南城侯に移封する。

また、汝南王の司馬亮を鎮南大将軍に任じた。
『晋書』(武帝紀)

ここで移封と始封の状況をまとめておく。
司馬亮 扶風王→汝南王 司馬懿(しばい)の息子 司馬炎の叔父
司馬伷 東莞王→琅邪王 司馬懿の息子 司馬炎の叔父
司馬駿 汝陰王→扶風王 司馬懿の息子 司馬炎の叔父
司馬倫 琅邪王→趙王 司馬懿の息子 司馬炎の叔父
司馬輔 渤海王(勃海王)→太原王 司馬孚(しばふ)の息子 司馬炎の従叔父
司馬顒 太原王→河間王 司馬瓌(しばかい)の息子 司馬炎のまたいとこ
司馬陵 北海王→任城王 司馬通(しばとう)の息子 司馬炎の従叔父
司馬斌 陳王→西河王 司馬通の息子 司馬炎の従叔父
司馬柬 汝南王→南陽王 司馬炎の息子
司馬耽 済南王→中山王 司馬遂(しばすい)の息子 司馬炎のまたいとこ
司馬威 河間王→章武王 司馬洪(しばこう)の息子 司馬炎の再従甥(はとこおい)
司馬瑋 始平王(始封) 司馬炎の息子
司馬允 濮陽王(始封) 司馬炎の息子
司馬該 新都王(始封) 司馬炎の息子
司馬遐 清河王(始封) 司馬炎の息子
羊祜 鉅平侯→南城侯

【08月】
癸亥の日(21日)
晋で暴風が吹いたため樹木が抜け、ひどい寒さで水が凍り、5つの郡国で霜が降り、穀物を傷つける。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
戊子(ぼし)の日(17日)
晋の司馬炎が、左将軍の胡奮(こふん)を都督江北諸軍事に任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
晋の兗州・豫州・徐州・青州・荊州・益州・梁州の7州で洪水が発生し、秋の作物を傷つける。司馬炎は詔を下し、被災地の救済にあたらせる。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
晋の司馬炎が、斉王(司馬攸〈しばゆう〉)の息子の司馬蕤(しばずい)を遼東王に、同じく司馬賛(しばさん)を広漢王に、それぞれ封ずる。
『晋書』(武帝紀)

【11月】
丙戌(へいじゅつ)の日(16日)
晋の司馬炎が宣武観に臨み、大規模な閲兵式を執り行い、壬辰(じんしん)の日(22日)まで続ける。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
呉の将軍の孫慎(そんしん)が、晋の江夏と汝南に侵入し、1千余家を略奪して去る。
『晋書』(武帝紀)

⇒夏
呉の夏口督の孫慎が、晋の江夏から汝南へ進軍して焼き討ちをかけ、その地の民を略奪して帰る。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『晋書』(武帝紀)と『三国志』(呉書・孫晧伝)で時期が異なる理由はよくわからず。夏に夏口から出撃して、12月に去ったのだろうか?

【?月】
この年、西北の雑虜および鮮卑・匈奴・五渓の蛮夷・東夷の3か国から前後して1千余輩が、それぞれの部落の構成員を引き連れて晋に内附(服従)した。
『晋書』(武帝紀)

参照した原文に「前後千餘輩」とあったり「前後十餘輩」とあったりしたため、イマイチはっきりしなかった。10余輩では少なすぎると思うので、1千余輩と見ておく。

【?月】
この年、呉の司直中郎将の張俶(ちょうしゅく)が、その悪事を知られたため誅殺された。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『江表伝』…張俶について。

特記事項

「この年(277年)に亡くなったとされる人物」
司馬裕(しばゆう)

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