【姓名】 曹芳(そうほう) 【あざな】 蘭卿(らんけい)
【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)
【生没】 232~274年(43歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・斉王紀(せいおうぎ)』あり。
魏(ぎ)の第3代皇帝、実権を取り戻せないまま退位
実の父母ともに不詳。曹叡(そうえい)は養父。
『三国志』(魏書・斉王紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』によると、「同じく曹叡の養子であった曹詢(そうしゅん)ともども、任城王(じんじょうおう)の曹楷(そうかい)の息子」ともいう。
異母兄にあたる曹冏(そうけい。?~226年)・曹穆(そうぼく。?~229年)・曹殷(そういん。231~232年)がみな早く亡くなったため、養子に迎えられたようだ。
曹叡が亡くなる当日に皇太子に立てられ、すぐに帝位を継いだものの、実権は曹爽(そうそう)、その後は司馬氏(しばし)一族に握られた。
254年9月、大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)が郭太后(かくたいこう)に曹芳の廃位を迫り、曹芳は退位して斉に帰藩することになった。
『三国志』(魏書・斉王紀)の裴松之注に引く『魏世譜(ぎせいふ)』によると、「魏の禅譲を受けた晋(しん)から邵陵県公(しょうりょうけんこう)に封ぜられ、274年に43歳で死去し、厲公(れいこう)と諡(おくりな)された」という。
曹芳が廃位された後、東海王(とうかいおう)の曹霖(そうりん)の息子である高貴郷公(こうききょうこう)の曹髦(そうぼう)が即位した。
主な経歴
-232年(1歳)-
この年、誕生。
-235年(4歳)-
8月、斉王に封ぜられる。
-239年(8歳)-
1月、父の曹叡が危篤となり皇太子に立てられる。同日に曹叡が崩御(ほうぎょ)。跡を継いで帝位に即き、大赦を行う。
また、曹叡の郭皇后(かくこうごう)に皇太后の尊称を奉る。大将軍の曹爽と太尉(たいい)の司馬懿(しばい)が補佐にあたることになった。
同日、詔(みことのり)を下す。「現在造営中の宮殿の工事は先帝の遺詔により中止し、官庁に属する60歳以上の奴婢(ぬひ)を解放して平民とする」というもの。
1月、曹叡を高平陵(こうへいりょう)に葬る。
2月、西域(せいいき)から火浣布(かかんぷ)が献上される。これを受けて大将軍(曹爽)と太尉(司馬懿)に詔を下し、火浣布の性能を試す実験に立ち会わせ、百官にも披露した。
2月、詔を下し、太尉の司馬懿を太傅(たいふ)に任ずる。節(せつ。権限を示すしるし)を持って軍勢を統率し、内外の諸軍事を取り仕切ることはこれまで通りとした。
3月、征東将軍(せいとうしょうぐん)の満寵(まんちょう)を太尉に任ずる。
6月、遼東(りょうとう)の東沓県(とうとうけん)の官民が、海を渡って斉郡の辺境に住みつく。
これを受け、もとの縦城県(しょうじょうけん)を新沓県(しんとうけん)として、それらの移民を住まわせることにした。
7月、初めて朝会に出席し、公卿(こうけい)の上奏を聴く。
8月、大赦を行う。
10月、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の黄権(こうけん)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ずる。
12月、詔を下し、再び夏暦(かれき)に復すことを決める。
これにより、建寅(けんいん)の月(1月)を正始(せいし)元年正月とし、建丑(けんちゅう)の月(12月)を後の12月とすることになった。
-240年(9歳)-
2月、侍中(じちゅう)・中書監(ちゅうしょかん)の劉放(りゅうほう)に左光禄大夫(さこうろくたいふ)を、侍中・中書令(ちゅうしょれい)の孫資(そんし)に右光禄大夫(ゆうこうろくたいふ)を、それぞれ加官する。
2月、遼東の汶県(ぶんけん)と北豊県(ほくほうけん)の民が、海を渡り流亡してくる。
これを受け、斉郡の西安(せいあん)・臨菑(りんし)・昌国(しょうこく)の3県の境域を区切って新汶県(しんぶんけん)と南豊県(なんぽうけん)を新設し、流民を住まわせることにした。
3月、昨年(239年)の12月からこの月(3月)まで、魏では雨が降らなかった。
3月、詔を下す。「裁判を担当する官吏は、無実の者に速やかに正しい処置を施し、その罪を減免せよ。微罪の者についても、審理したうえで出獄させよ」というもの。
三公・九卿(きゅうけい)・士人に対しても、「正しい言葉と優れた計策を献じ、それぞれの考えを十分に表明するように」と命じた。
4月、車騎将軍の黄権が死去する。
7月、詔を下す。「いま民間では物資が不足しているのに、御府(ぎょふ。宮中で使用する衣服などを製作する役所)がおびただしい金銀の細工物を製作しているのは、いったいどういうつもりか」として、「150種類の金製や銀製の品、合わせて1,800斤以上を供出し、これを溶かして軍費にせよ」というもの。
8月、洛陽(らくよう)近辺の穀物の取り入れを自ら巡察し、それぞれ格差をつけ、高齢者と農事に勤しむ者に褒美を与える。
-241年(10歳)-
2月、初めて『論語(ろんご)』を学び、太常(たいじょう)に命じて太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)を捧げ、辟雍(へきよう。天子〈てんし〉が建てた太学〈たいがく〉)で孔子(こうし)を祭らせ、顔淵(がんえん)も併せて祭る。
5月、呉(ご)の朱然(しゅぜん)らが、襄陽郡(じょうようぐん)の樊城県(はんじょうけん)を包囲する。これを受けて、太傅の司馬懿に防戦を命じた。
6月、司馬懿が呉軍を追い払い、樊城県から軍勢を引き揚げる。
?月、征東将軍の王淩(おうりょう)を車騎将軍に任ずる。
12月、南安郡(なんあんぐん)で地震が起こる。
-242年(11歳)-
1月、東平王(とうへいおう)の曹徽(そうき)が薨去(こうきょ)する。
3月、太尉の満寵が死去する。
7月、南安郡で地震が起こる。
7月、領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)の蔣済(しょうせい)を太尉に任ずる。
12月、魏郡で地震が起こる。
-243年(12歳)-
1月、元服に伴い、臣下に格差をつけて品物を下賜する。
4月、甄氏(しんし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。
5月、皆既日食が起こる。
7月、詔を下し、亡き大司馬(だいしば)の曹真(そうしん)・曹休(そうきゅう)ら20名の功臣を、太祖(たいそ。曹操〈そうそう〉)の霊廟(れいびょう)の堂前の広場に祭る。
★曹真・曹休以外の功臣とは、征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)の夏侯尚(かこうしょう)、太常の桓階(かんかい)、司空(しくう)の陳羣(ちんぐん)、太傅の鍾繇(しょうよう)、車騎将軍の張郃(ちょうこう)、左将軍(さしょうぐん)の徐晃(じょこう)、前将軍(ぜんしょうぐん)の張遼(ちょうりょう)、右将軍(ゆうしょうぐん)の楽進(がくしん)、太尉の華歆(かきん)、司徒(しと)の王朗(おうろう)、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の曹洪(そうこう)、征西将軍(せいせいしょうぐん)の夏侯淵(かこうえん)、後将軍(こうしょうぐん)の朱霊(しゅれい)と文聘(ぶんぺい)、執金吾(しつきんご)の臧霸(そうは)、破虜将軍(はりょしょうぐん)の李典(りてん)、立義将軍(りつぎしょうぐん)の龐徳(ほうとく)、武猛校尉(ぶもうこうい)の典韋(てんい)の18名。
12月、倭国(わこく)の女王である俾弥呼(ひみこ。卑弥呼)の使者が、献上品を届けに来る。
-244年(13歳)-
2月、大将軍の曹爽に詔を下し、蜀(しょく)の討伐を命ずる。
閏3月、魏軍が漢中(かんちゅう)に攻め込んだものの、蜀の大将軍の費禕(ひい)に敗れる。
4月、日食が起こる。
5月、『尚書(しょうしょ)』を終わりまで学び、太常に命じて太牢を捧げさせ、辟雍で孔子を祭らせ、顔淵も併せて祭る。
また、太傅(司馬懿)と大将軍(曹爽)および講義の担当者に、それぞれ格差をつけて品物を下賜した。
5月、曹爽が軍勢をひきいて帰還する。
8月、兄で秦王(しんおう)の曹詢が薨去する。
9月、鮮卑族(せんぴぞく)が内属する。これを受けて遼東属国(りょうとうぞっこく)を設け、昌黎県(しょうれいけん)も新設して住まわせることにした。
11月、詔を下し、亡き尚書令(しょうしょれい)の荀攸(じゅんゆう)を、太祖(曹操)の霊廟の堂前の広場に祭る。
11月、秦国を京兆郡(けいちょうぐん)に戻す。
12月、司空の崔林(さいりん)が死去する。
この年、曹髦を郯県(たんけん)の高貴郷公に封じた。
-245年(14歳)-
2月、南安郡で地震が起こる。
2月、驃騎将軍の趙儼(ちょうげん)を司空に任ずる。
6月、司空の趙儼が死去する。
8月、太常の高柔(こうじゅう)を司空に任ずる。
?月、左光禄大夫の劉放を驃騎将軍に、右光禄大夫の孫資を衛将軍(えいしょうぐん)に、それぞれ任ずる。
11月、太祖(曹操)の霊廟に代々の先祖を併せて祭る。
さらに、先に定めた建国の功臣21人(曹真・曹休・夏侯尚・桓階・陳羣・鍾繇・張郃・徐晃・張遼・楽進・華歆・王朗・曹洪・夏侯淵・朱霊・文聘・臧霸・李典・龐徳・典韋・荀攸)も祭る。
12月、詔を下し、亡き司徒の王朗が制定した『易伝(えきでん)』について、学生が官吏登用の受験科目として選べるようにする。
12月、詔を下す。「明日(元旦)、群臣を会集させる際、太傅(司馬懿)は輿に乗ったまま上殿することを許す」というもの。
-246年(15歳)-
2月、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の毌丘倹(かんきゅうけん)が高句驪(こうくり。高句麗)を討伐する。
5月、幽州刺史の毌丘倹が、高句驪に続いて濊貊(わいばく)も討伐する。
?月、東夷(とうい)の韓那奚(かんなけい)ら数十か国が、それぞれ部族をひきいて降伏してくる。
8月、詔を下す。「近ごろ市場で売り払われている奴婢を見ると、みな70歳ほどであり、中には老衰や死にかけの病人までいる。そのうえ役所では彼ら奴婢の体力が尽きてしまったために、これを再度売り払おうとしている」と指摘し、「これらすべての者を解放して平民とせよ。自活していけない者があれば、郡や県は救済してやるように」というもの。
8月、詔を下す。今月、自ら祭祀(さいし)を執り行う予定に触れ、「先日、朕が外出した際、すでに道路を整備しているのを目にした。もし雨が降れば、また改めて整備しなければならない。これではいたずらに労力を費やすことになる」と述べ、「老人や子どもを殴ったり鞭打ったりしてまで、道路の整備をさせることがないようにせよ」というもの。
12月、『礼記(らいき)』を終わりまで学び、太常に命じて太牢を捧げさせ、辟雍で孔子を祭らせ、顔淵も併せて祭る。
-247年(16歳)-
2月、日食が起こる。
5月、河東郡(かとうぐん)から汾水(ふんすい)北部の10県を分割し、平陽郡(へいようぐん)を新設する。
7月、尚書(しょうしょ)の何晏(かあん)から上奏がある。
為政者の暗愚と聖明について考察したもので、「今後、式乾殿(しょくけんでん。皇后の宮殿)に行幸なさるときや後園で遊ばれるときは、大臣を伴われますように。遊宴を催される機会のついでに文書をお調べになり、政治についてご相談され、経書(けいしょ)の意味について議論され、永遠の模範となられるべきです」というもの。
12月、散騎常侍(さんきじょうじ)・諫議大夫(かんぎたいふ)の孔乂(こうがい)から上奏がある。
天子の宮殿に朱丹の塗料を施し、飾り立てるのをやめるよう勧めたうえ、「後園で馬を乗り回されるのもおやめになり、外出される際には、必ず輦(れん。輿の形をした屋根と車輪つきの天子の乗り物)か馬車にお乗りになるべきです」というもの。
-248年(17歳)-
2月、衛将軍・中書令の孫資が退官し、諸侯の身分のまま私邸に帰る。この際、特進(とくしん)の位を授けた。
2月、驃騎将軍・中書監の劉放が退官し、諸侯の身分のまま私邸に帰る。この際、特進の位を授けた。
3月、司徒の衛臻(えいしん)が退官し、諸侯の身分のまま私邸に帰る。この際、特進の位を授けた。
4月、司空の高柔を司徒に任ずる。また、光禄大夫の徐邈(じょばく)を司空に任じようとしたが、彼は固辞して受けなかった。
9月、車騎将軍の王淩を司空に任ずる。
10月、暴風のために屋根が飛び、樹木も折れた。
-249年(18歳)-
1月、高平陵に参詣する。
この際、太傅の司馬懿の上奏により、大将軍の曹爽と弟で中領軍(ちゅうりょうぐん)の曹羲(そうぎ)、同じく武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の曹訓(そうくん)、同じく散騎常侍の曹彦(そうげん)が罷免され、諸侯の身分のまま私邸に帰る。
1月、担当官吏の上奏により黄門(こうもん)の張当(ちょうとう)が逮捕され、廷尉(ていい)に引き渡される。
その後、張当が曹爽の反乱計画の一味と判明し、尚書の丁謐(ていひつ)・鄧颺(とうよう)・何晏、司隷校尉(しれいこうい)の畢軌(ひっき)、荊州刺史(けいしゅうしし)の李勝(りしょう)、大司農(だいしのう)の桓範(かんはん)らも計画に加担していたことがわかったため、みな三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)を誅滅した。
大将軍の曹爽らが処刑されたことを聴き、右将軍の夏侯霸(かこうは)らが蜀に降った。
1月、大赦を行う。
1月、太傅の司馬懿を丞相(じょうしょう)に任じようとしたが、彼が固辞したため沙汰やみになる。
4月、「正始」を「嘉平(かへい)」と改元する。
4月、太尉の蔣済が死去する。
秋、蜀の衛将軍の姜維(きょうい)が雍州(ようしゅう)に攻め込んだものの、郭淮(かくわい)らが撃退する。蜀の将軍の句安(こうあん)と李韶(りしょう)が投降した。
12月、司空の王淩を太尉に任ずる。
12月、司隷校尉の孫礼(そんれい)を司空に任ずる。
-250年(19歳)-
5月、征西将軍の郭淮を車騎将軍に任ずる。
10月、特進の孫資を驃騎将軍に任ずる。
11月、司空の孫礼が死去する。
12月、征南将軍(せいなんしょうぐん)の王昶(おうちょう)が長江(ちょうこう)を渡って呉を急襲し、これを撃破する。
12月、東海王の曹霖が薨去する。
-251年(20歳)-
1月、荊州刺史(けいしゅうしし)の王基(おうき)と新城太守(しんじょうたいしゅ)の州泰(しゅうたい)が呉を攻め破る。このときの戦いでは降伏する者が数千人に及んだ。
2月、南郡(なんぐん)に夷陵県(いりょうけん)を新設し、呉の降人を住まわせる。
3月、尚書令の司馬孚(しばふ)を司空に任ずる。
4月、征南将軍の王昶を征南大将軍に任ずる。
4月、大赦を行う。
5月、太尉の王淩が、曹芳を廃して楚王(そおう)の曹彪(そうひゅう)を擁立しようと謀っていることが発覚する。これを受け、太傅の司馬懿に王淩征伐を命じた。
5月、太尉の王淩が自殺する。
6月、楚王の曹彪を死刑に処す。
7月、甄皇后が崩御する。
7月、司空の司馬孚を太尉に任ずる。
8月、太傅の司馬懿が死去する。
これを受けて、司馬懿の息子である衛将軍の司馬師を、撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)・録尚書事(ろくしょうしょじ)に任ずる。
8月、懐甄皇后(かいしんこうごう。甄氏)を太清陵(たいせいりょう)に葬る。
8月、驃騎将軍の孫資が死去する。
11月、担当官吏から上奏がある。「太祖(曹操)の霊廟に併せ祭るべき諸功臣を、改めて官位によって並べ替えられますように」というもの。
これを受け、亡き太傅の司馬懿が功績・官位ともに高かったので、功臣の最上位に置くことにした。
12月、光禄勲(こうろくくん)の鄭沖(ていちゅう)を司空に任ずる。
-252年(21歳)-
1月、撫軍大将軍の司馬師を大将軍に任ずる。
2月、張氏(ちょうし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。
4月、呉の孫権(そんけん)が死去し、息子の孫亮(そんりょう)が跡を継ぐ。
5月、2匹の魚が武庫の屋根の上に現れる。
11月、詔を下し、征南大将軍の王昶、征東将軍の胡遵(こじゅん)、鎮南将軍の毌丘倹らに呉の征伐を命ずる。
12月、呉の諸葛恪(しょかつかく)と交戦し、東関(とうかん)で大敗する。魏軍は戦果なく帰還した。
-253年(22歳)-
1月、蜀に降っていた郭循(かくじゅん。郭脩〈かくしゅう〉)が、蜀の大将軍の費禕を漢寿(かんじゅ)で殺害する。
4月、大赦を行う。
5月、呉の太傅の諸葛恪が、合肥新城を包囲する。これを受け、太尉の司馬孚に詔を下して防戦を命ずる。
7月(8月とも)、呉の太傅の諸葛恪が軍勢をまとめ、合肥新城から撤退する。
8月、詔を下す。亡き中郎(ちゅうろう)の郭脩(郭循)に長楽郷侯(ちょうらくきょうこう)を追封し、領邑(りょうゆう)1千戸を与えたうえ、威侯(いこう)と諡するもの。
また、その息子に爵位を継がせて奉車都尉(ほうしゃとい)に任じたうえ、銀1千鉼(へい)と絹1千匹を下賜した。
-254年(23歳)-
2月、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹から、先の合肥新城での戦いにおける、戦士の劉整(りゅうせい)と鄭像(ていしょう)の活躍についての上言がある。
これを受け、亡きふたりに関中侯(かんちゅうこう)の爵位を追贈したうえ、兵士の名簿から外させた。
さらに、その息子らに爵位を継がせ、部隊長が戦死した際の取り決めに従うよう命じた。
2月、中書令の李豊(りほう)が、張皇后の父で光禄大夫の張緝(ちょうしゅう)らと結託し、大臣を更迭して太常の夏侯玄(かこうげん)を大将軍にしようと企てる。
この計画が露見したため、関係者をことごとく誅殺した。
2月、大赦を行う。
3月、張皇后を廃位する。
4月、王氏(おうし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。
5月、王皇后の父で奉車都尉の王夔(おうき)を、広明郷侯(こうめいきょうこう)に封じたうえ、光禄大夫・特進に任ずる。また、王夔の妻の田氏(でんし)を、宣陽郷君(せんようきょうくん)に封じた。
9月、大将軍の司馬師が曹芳の廃位を企て、その旨を郭太后に上奏する。
9月、郭太后が、好色を理由に曹芳の廃位を命ずる。このとき23歳だった曹芳は、斉王として帰藩することになった。
-274年(43歳)-
この年、晋の邵陵県公として死去し、厲公と諡された。
管理人「かぶらがわ」より
曹芳は、曹叡の養子というだけで出自もはっきりせず、わずか8歳での即位。当然ながら独自色を出すことはできず、初めは曹爽、その後は司馬氏の傀儡(かいらい)でした。
そして、廃位された後も抵抗を試みることはなく、晋代に入って亡くなりました。これはこれで良かったのかもしれません。
この曹芳以降の魏の皇帝は、まったくのお飾りになってしまい、ついに司馬氏から実権を取り戻すことはできませんでした。
皇帝個人の資質というより、時代の流れに逆らいようがなかったといったところでしょうか……。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます