公孫淵(こうそんえん)

【姓名】 公孫淵(こうそんえん) 【あざな】 ?

【原籍】 遼東郡(りょうとうぐん)襄平県(じょうへいけん)

【生没】 ?~238年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第105回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫度伝(こうそんたくでん)』に付された「公孫淵伝」あり。

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公孫康(こうそんこう)の息子、遼東一帯で自立して燕王(えんおう)を称す

父は公孫康だが、母は不詳。公孫晃(こうそんこう)は兄。公孫脩(こうそんしゅう)という息子がおり、このほかにも3人の息子がいたことがうかがえる。

公孫康が死去した際、息子の公孫晃や公孫淵らは幼かったため、公孫康の弟の公孫恭が、代わって遼東太守(りょうとうたいしゅ)となった。

しかし、かつて公孫恭は陰萎(いんい)を病んで性的不能者となっており、資質も劣っていて、国を治めていく能力を持っていなかった。

228年、公孫淵は、叔父である公孫恭を脅迫して位を奪う。魏(ぎ)の曹叡(そうえい)は、公孫淵を揚烈将軍(ようれつしょうぐん)・遼東太守に任じた。

232年10月、公孫淵は、配下の校尉(こうい)の宿舒(しゅくしょ)と郎中令(ろうちゅうれい)の孫綜(そんそう)を呉(ご)へ遣わし、呉に帰属して藩国になる旨を伝えさせ、併せて貂(テン)の毛皮と馬を献上した。

翌233年3月、呉の孫権(そんけん)は宿舒らの帰国に際し、配下の太常(たいじょう)の張弥(ちょうび)、執金吾(しつきんご)の許晏(きょあん)、将軍の賀達(がたつ)らに1万の兵を付けて同行させた。

さらに孫権は金玉や珍宝を贈るとともに、公孫淵を燕王に封じたうえ、九錫(きゅうせき)まで加えた。

呉の丞相(じょうしょう)の顧雍(こよう)らは、公孫淵への度を越した厚遇を思いとどまるよう諫めたが、孫権は聞き入れなかった。

ところが、孫権から燕王に封ぜられた公孫淵は、呉が遠すぎて助力は当てにできないと心配する一方、財物だけは欲しいと考える。そこで孫権が遣わした張弥や許晏らを斬り、その首を魏へ送り届けた。

これを受け、魏の曹叡から大司馬(だいしば)に任ぜられ、楽浪公(らくろうこう)に封ぜられた。持節(じせつ)と遼東太守の地位もこれまで通りとされた。

237年、魏の曹叡は、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の毌丘倹(かんきゅうけん)に玉璽(ぎょくじ)を押した文書を持たせ、公孫淵を洛陽(らくよう)へ召し寄せようとした。

公孫淵は軍勢を出し、遼隧(りょうすい)で毌丘倹を撃退。そのうえ自立して燕王を称し、独自に百官有司(担当官吏)を置き、「紹漢(しょうかん)」の年号を建てた。

また、使者にしるしの節(はた)を持たせ、鮮卑(せんぴ)の単于(ぜんう。王)に玉璽を与えて、辺境の民を支配させた。そして鮮卑族に誘いかけ、魏の北方を荒らすよう仕向けた。

翌238年春、魏の太尉(たいい)の司馬懿(しばい)が軍勢をひきいて進発し、6月には遼東へ到着。公孫淵は、配下の将軍の卑衍(ひえん)と楊祚(ようそ)らに歩騎数万を付けて遼隧へ駐屯させ、20里以上にわたる塹壕(ざんごう)を巡らせた。

だが、司馬懿が配下の将軍の胡遵(こじゅん)らを差し向けると、遼隧の軍勢は撃破されてしまう。

続いて司馬懿は周囲の塹壕に穴を開けさせ、軍勢を引き揚げて東南へ向かうと見せかけたが、急に東北へ向きを変えて襄平を目指した。卑衍らは襄平が無防備であることを心配し、夜中に逃走した。

こうして司馬懿の軍勢が首山(しゅざん)まで侵出すると、公孫淵は再び卑衍らに迎撃を命じた。卑衍らはここでも大破され、司馬懿は襄平の城壁の下まで進み、周囲に塹壕を巡らせた。

このころ30日以上も雨が降り続き、遼水(りょうすい)が増水する。輸送船が、遼水の口から城壁の下まで直行できるほどになった。

やがて雨が上がると司馬懿は土山を築き、櫓(やぐら)の上に連発式の弩(ど)を備え、城内へ矢を射込んできた。

公孫淵には手の打ちようがなく、食糧も底を突いて人々は互いに食らい合い、多数の死者が出た。配下の楊祚らは投降した。

同年8月の夜、長さ数十丈もあろうかという大流星が、首山の東北から襄平城の東南に落ちた。この月のうちに公孫淵軍は総崩れとなり、公孫淵は、息子の公孫脩とともに数百の騎兵で包囲を突破し、東南へ逃走した。

その後、司馬懿の大軍の急襲を受け、ちょうど大流星が落ちた場所で、父子ともども斬り殺された。襄平城も陥落し、配下の相国(しょうこく。官名)以下、数千人が斬り殺された。

公孫淵の首は洛陽へ届けられ、遼東・帯方(たいほう)・楽浪・玄菟(げんと)の4郡はことごとく魏に平定された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、司馬懿に討伐される前、たびたび公孫淵の家で奇怪なことが起こっていたそうです。

それは、犬が頭巾をかぶり、赤い着物をつけて屋根に上がっていたり、飯を炊いたところ、甑(こしき。瓦製の蒸し器)の中で子どもが蒸されて死んでいた、というもの。

また、襄平の北で売られていた生肉は、長さと太さが数尺(すうせき)あり、頭と目と口が付いていて、手足がないのにゆらゆら揺れ動いていたのだとも。

なお、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の公孫淵の項目では、「頭と目と口が付いていて」のところが、「頭があるのに目も口もなく」となっていました。

原文では「有頭目口喙」とありますが、どちらがより正しく形状を捉えているのか、イマイチ判断がつきませんでした。

占いには、「形があるのに不完全で、体があるのに声は出ない。このような怪物が出現した国は滅亡するであろう」とあったとも言い……。

189年に祖父の公孫度が遼東を占拠して以来、父の公孫康、そして公孫淵に至るまで3代を経て、238年までの合わせて50年で滅亡したのだということでした。

前の公孫度の記事公孫康の記事でも触れましたが、公孫度・公孫康・公孫淵の公孫氏3代と、倭(わ)の女王である卑弥呼(ひみこ)との外交関係はとても興味深いです。

2013年3月にNHKのEテレで放送された、「さかのぼり日本史(こうして“クニ”が生まれた)」を観ました。

「魏と卑弥呼」ではなく「公孫氏と卑弥呼」という視点は、地理的に見れば当たり前なのでしょうけど、いろいろと考えさせられるところがありました。

「さかのぼり日本史(こうして“クニ”が生まれた)」
2013/03/19放送 第1回 卑弥呼の外交戦略
2013/03/26放送 第2回 弥生時代 国際社会への参入

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