175年(漢の熹平4年)の主な出来事

-175年- 乙卯(いつぼう)
【漢】 熹平(きへい)4年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【03月】「熹平石経(きへいせっけい)の設置」
霊帝が諸儒に詔(みことのり)を下し、五経(ごきょう)の文字を正すよう命じ、それを石に刻ませて太学(たいがく)の門外に立てる。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「これは熹平石経と呼ばれる石経で、『詩経(しきょう)』『書経(しょきょう)』『易経(えききょう)』『儀礼(ぎらい)』『春秋(しゅんじゅう)』『公羊伝(くようでん)』『論語(ろんご)』の7種が立てられた」という。

『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)によると、「蔡邕(さいよう)が馬日磾(ばじってい)らとともに霊帝に願い出て、経書の文字を正定する許可を得たのがこの年(175年)のこと。その後、蔡邕自身が隷書で書いたものを石工に刻ませた。この石碑は183年に完成。洛陽(らくよう)の太学の門前に立てられ、熹平石経と称されるようになった」という。

⇒03月
霊帝が諸儒に命じ、五経の校定を行わせる。その後、蔡邕が書したものを石に刻ませ、太学の門外に立てた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【03月】
霊帝が、河間王(かかんおう)の劉建(りゅうけん)の息子である劉佗(りゅうた)を、任城王(じんじょうおう)に封ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
郡国の7か所で大水がある。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【05月】
丁卯(ていぼう)の日(1日)
霊帝が大赦を行う。
『後漢書』(霊帝紀)

【05月】
延陵(えんりょう。成帝〈せいてい〉の陵)の園で災害が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは災害の内容が具体的に書かれておらず、何だかわかりにくい。

【05月】
霊帝が、使者に節(せつ。使者のしるし)を持たせて延陵に遣わし、告祠(こくし)を行わせる。
『後漢書』(霊帝紀)

【05月】
鮮卑(せんぴ)が幽州(ゆうしゅう)に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
弘農郡(こうのうぐん)と三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)で螟(ズイムシ)の被害が出る。霊帝は守宮令(しゅきゅうれい)を鹽監(えんかん。塩監)に遣わし、渠(きょ)を穿(うが)つよう命じて民の利便を図らせた。

また、災害に遭った郡国の者には田租を半分に減らし、その被害が10分の4以上であれば、督促しないよう命じた。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
丁巳(ていし)の日(23日)
霊帝が、縑(きぬ)を納めることで未決囚に罪を購わせる。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が、沖帝(ちゅうてい)の母である虞美人(ぐびじん)を憲園貴人(けんえんきじん)とし、質帝(しつてい)の母である陳夫人(ちんふじん)を勃海孝王妃(ぼっかいこうおうひ)とする。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「虞美人は順帝(じゅんてい)の美人。憲園は洛陽の東北にある。陳夫人は、勃海孝王の劉鴻(りゅうこう)の夫人である」という。

【10月】
霊帝が、平準(へいじゅん)を中準(ちゅうじゅん)と改めたうえ、その令(れい)として宦官(かんがん)を起用する。中準は内署に列し、これ以降、諸署の令や丞(じょう)をことごとく宦官が占めるようになった。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、于闐王(うてんおう。ホータン)の安国(あんこく)が拘弥(こうび)を攻め、その王を殺害した。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(175年)に生まれたとされる人物」
周瑜(しゅうゆ)孫策(そんさく)楊脩(ようしゅう)

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