220年、曹丕(そうひ)は漢(かん)の献帝(けんてい)から禅譲を受ける形で、ついに魏(ぎ)の帝位に即く。
新たに山陽公(さんようこう)に封ぜられた劉協(りゅうきょう。献帝)は、妃(きさき)の曹氏(そうし。曹丕の妹)とともに船で許都(きょと)を離れるが――。
第76話の展開とポイント
(01)許宮(きょきゅう) 内宮(ないくう)
司馬懿(しばい)が献帝に、受禅台(じゅぜんだい)が完成したあと吉日を選んで文武百官を集め、曹丕に天子(てんし)の玉璽(ぎょくじ)を渡して禅譲するよう伝える。司馬懿は献帝の御前で詔(みことのり)の起草に取りかかる。
(02)許都 受禅台
献帝が詔を読み上げ、曹丕への禅譲を宣言する。
★確信は持てないが、このシーンでは先の第59話(04)で出てきた銅雀台(どうじゃくだい)を使って(使い回して)いるように見えた。
(03)西暦220年 曹丕 曹魏を建国
曹丕が国号を「大魏(たいぎ)」と号し、「黄初(こうしょ)」と建元。洛陽(らくよう)を都と定め、亡き曹操(そうそう)に太祖(たいそ)武皇帝(ぶこうてい)の諡号(しごう)を追贈する。
また曹丕は、帝位を譲った劉協(献帝)を山陽公に封ずる。
(04)許都 船着き場
司馬懿が曹丕の命を受け、劉協と曹氏(曹皇后〈そうこうごう〉)の出立を見送る。
(05)船中の劉協
劉協が曹氏とともに、帝位に即いてからの出来事を振り返る。しばらくすると乗っていた船が沈み始め、みな動揺する。
曹氏は曹丕の企みだと言うが、劉協は自分の指示で船底に穴を開けさせたと明かす。劉協は船から逃げるよう促すが、曹氏は留まると言い、ほどなくふたりは船とともに水中に没した。
(06)益州(えきしゅう) 成都(せいと)
劉備(りゅうび)が諸葛亮(しょかつりょう)に、関羽(かんう)の驕(おご)りから荊州(けいしゅう)、そして関羽自身を失ったことを嘆く。一方で援軍を送らなかった劉封(りゅうほう)と孟達(もうたつ)への怒りを深める。
★ここで劉備が諸葛亮に、「孟達は、こともあろうに敵に降りおった……」と言っていた。この説明だけだと孟達が曹丕に降ったことまではわかりにくいと思う。
孫乾(そんけん)が劉備と諸葛亮に、曹丕が天子に禅譲を迫って建国改元し、魏帝(ここでは『偽帝』の意味もあるかも)を称したこと。さらに、帝位を奪われた天子は許都を追われたが、道中で乗っていた船が沈んだことを伝える。
(07)成都の郊外
劉備が巨大な祭壇を築かせて劉協を追悼。この場で諸葛亮に促された趙雲(ちょううん)が、劉備に帝位に即くよう勧める。続いて魏延(ぎえん)も即位を勧め、皆も賛同の声を上げる。
ところが劉備は無礼だと激怒し、今後この件を口にした者は罰すると告げる。そして病を理由にすべての政務を諸葛亮に任せる。
(08)成都 漢中王府(かんちゅうおうふ)
劉禅(りゅうぜん)が劉備の前で、3日間読んでいた(『史記〈しき〉』の)「高祖本紀(こうそほんぎ)」を暗唱しようとするが、まったくうまくいかない。
劉備は罰として手(のひら)を20回叩くと言うが、数回叩いたところで孫乾が口添えし、ひとまず劉禅に覚える時間を与えることにする。
★ここで劉備が劉禅に、「蹴鞠(けまり)や投壺(とうこ)も雑技も、習えばすぐにできるではないか……」と言っていた。
★またここで孫乾が劉備に、「私は中平(ちゅうへい)3(186)年よりお仕えしております。かれこれ23年です」と言っていたが、この発言は理解できない。
これが220年の曹丕の即位後だと考えれば、23年前は197年となり建安(けんあん)2年である。翌221年の23年前なら198年となり建安3年である。いずれにせよ中平3年では話が合わない。孫乾が劉備に仕えたのは陶謙(とうけん)の死後という設定だろうから、興平(こうへい)元(194)年ごろとすべきでは?
孫乾が劉備に改めて帝位に即くよう勧める。劉備は礼を述べ、よく考えてみると応える。
劉備のもとに、諸葛亮が急病で床に伏したため政務が滞っているとの知らせが届く。
(09)諸葛亮邸
劉備が諸葛亮を見舞う。ここで諸葛亮も帝位に即くよう切言する。
★ここで劉備と諸葛亮が、管寧(かんねい)の「カッセキダンコウ(割席断交)」のエピソードに触れていた。
(10)李厳邸(りげんてい)
劉備が李厳を訪ね、今後の蜀(しょく)の方向性について意見を聴く。
★ここで李厳が劉備を出迎えた際、李厳の息子らしき人物も登場していた。字幕による紹介はなかったが、どうやら李豊(りほう)のようだ。
★またここで劉備が李厳に、「聞いたところ、中平(184~189年)のある年、蜀に干ばつがあり、この界わいでも4割の者が死んだとか。その折そなたは一族を集め、ひと月ほどでこの家に100尺(しゃく)の深さの井戸を掘り、人々を救ったそうだな……」と言っていた。
管理人「かぶらがわ」より
曹丕に帝位を奪われ、自ら水中へと消えた献帝と曹皇后。ドラマチックな最期でした。
ただ、曹氏が劉協寄りという設定はいいとしても――。曹丕に追い詰められる形で劉協が死を選んだという設定は、曹丕を貶(おと)し、劉備を持ち上げる意図が見え見えです。
もちろん正史『三国志』とは異なりますし、『三国志演義』でもそこまで極端な話にはしていません。ドラマとしてはおもしろいのかもしれませんけど、個人的には好きになれない設定でした。
ちなみに正史『三国志』によると、劉協は山陽公として234年に薨去(こうきょ)しました。これは曹丕の死から8年後のことです。
そして曹氏(曹皇后。曹節〈そうせつ〉)のほうは260年に亡くなっています。ふたりとも曹丕にどうこうされたわけではありません。
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