諸葛亮(しょかつりょう)は北伐のたび問題になる蜀軍(しょくぐん)の兵糧輸送について、かつて臥竜岡(がりょうこう)で暮らしていたころ考案した木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)を実用化することで解決を図る。
この話を聞きつけた魏(ぎ)の司馬懿(しばい)は、司馬昭(しばしょう)と孫礼(そんれい)に命じて木牛流馬を奪い取らせ、同じ物を作って自軍の兵糧輸送に用いるが――。
第92話の展開とポイント
(01)蜀漢(しょくかん) 成都(せいと)
諸葛亮がキ山(きざん。ネ+阝。祁山)の軍営へ向けて出発。劉禅(りゅうぜん)は百官とともに城門で軍列を見送る。
★ここで劉禅が諸葛亮に、「相父(しょうほ)はこの10年のうちにごたびもキ山へ。もう体も無理が利かぬ。くれぐれも大事にせよ」と言っていた。
(02)魏延(ぎえん)の軍営
魏延のもとに、魏から投降した前軍の偏将軍(へんしょうぐん)の鄭文(ていぶん)が連れてこられる。
★このドラマにおける「鄭文」の「鄭」は字体違い。1画目と2画目の向きが違っており、「ハ」が逆さまになっている字形。
鄭文は魏延に、秦朗(しんろう)が武功城(ぶこうじょう)を捨てた罪を自分にかぶせ、手柄のほうはひとり占めしたことを話す。
そのため司馬懿は秦朗を前将軍(ぜんしょうぐん)に昇進させ、自分には死罪を科したとも。
命乞いをして死罪は免れたものの、司馬懿に武功城を取り戻すよう命ぜられた。しかし魏延が相手では勝ち目がないとみて、投降するに至ったのだと。
魏延は鄭文の投降を偽りと判断し、首を刎(は)ねるよう命ずる。ところがそこへ、「将軍の秦朗」と称する者が兵をひきいて攻め寄せ、鄭文との一騎討ちを望んでいるとの知らせが届く。
鄭文は魏延の許しを得て秦朗と一騎討ちを行い、数合で討ち取る。魏延は鄭文の見方を改め配下に加える。
★ここで鄭文は砦というか、城から出撃していた。このカットは各所で別の場所として使い回されていたため、どうしても観ていて違和感がある。
魏延は鄭文から、司馬懿が隴西(ろうせい)の本営にはおらず、司馬昭や5千の鉄騎とともに北原(ほくげん)にいることを聞く。
魏延は北原を奇襲すると言いだすが、馬岱(ばたい)は諸葛亮が不在の間、決して軍勢を動かすなと命ぜられていることを指摘。それでも魏延は考えを変えず、やむなく馬岱も従う。
★馬岱は久しぶりの登場。
(03)キ山 諸葛亮の軍営
諸葛亮が参軍(さんぐん)の楊儀(ようぎ)を伴い到着する。
★ここで諸葛亮が皆に、楊儀を古い友人と紹介していたが……。
王平(おうへい)が諸葛亮に、昨夜、魏延が2万の鉄騎をひきい、北原へ討伐に出たことを伝える。
諸葛亮は鄭文が投降してきた話を聞き、偽者と思われる秦朗を討ち取ったことも含めて計略だと告げる。
楊儀は、司馬懿が北原にいるというのも偽りだろうと言い、諸葛亮も同意。
諸葛亮は姜維(きょうい)と王平に騎兵を預け、ただちに紫石谷(しこくや)へ向かい、魏延らを救い出すよう命ずる。
(04)紫石谷
魏延らが魏の伏兵から攻撃を受ける。馬岱は左腕を負傷。魏延は逃げようとした鄭文を矢で仕留める。
山上から戦況を見ていた司馬懿は司馬昭に谷口をふさぐよう命じ、魏延を討ち取りにかかる。
★ここで司馬懿が司馬昭に、「3年前、諸葛亮は剣閣道(けんかくどう)に兵を置き、張郃(ちょうこう)を殺(あや)めた……」と言っていた。先の第89話(10)を参照。
そこへ姜維と王平ひきいる蜀の援軍が駆けつける。司馬懿は諸葛亮が来ていないとみると、全軍に突撃を命ずる。
(05)諸葛亮の軍営
魏延らが紫石谷から戻る。諸葛亮は、命に背いて出陣し数千の精鋭を失ったことを問責。魏延と馬岱に80回の棒刑を言い渡す。
しかし王平がふたりの奮戦ぶりを話し、楊儀も口添えしたため、諸葛亮は今回の刑を免ずる。
姜維が諸葛亮から魏軍の様子を尋ねられ、司馬懿が隴西の本営へ戻ったことを伝える。3つある堅固な砦から当分は出てこないだろうとも。
諸葛亮は魏延と馬岱に、兵をひきいて司馬懿を挑発するよう命ずる。
(06)隴西 司馬懿の軍営
魏延と馬岱は兵士たちに魏軍を罵らせるが、10日続けても反応はない。
(07)諸葛亮の軍営
諸葛亮が楊儀を呼び、司馬懿に書簡と女物の衣を届けさせる。
(08)司馬懿の軍営
司馬懿が楊儀と会い、諸葛亮の書簡と女物の衣を受け取る。
孫礼は激怒して楊儀に剣を突きつけるが、司馬懿は笑って受け流す。そればかりか贈られた衣を羽織ってみせる。
腹を立てた諸将が退出した後、司馬懿は楊儀と酒を酌み交わし、諸葛亮の食事や睡眠、公務について尋ねる。
楊儀は諸葛亮が忙しくしていることを話す。
(09)諸葛亮の軍営
諸葛亮は楊儀から司馬懿の様子を聞き、自分の考えが見破られたことを悟る。
さらに、兵糧を運んでくるはずの李豊(りほう)が予定を3日過ぎても到着しないことに気をもむ。
(10)司馬懿の軍営
孫礼らが司馬懿に出陣を許可するよう懇願。しかし司馬懿は許さず、堅く守り、戦わぬことが勝利への道だと諸将を諭す。
(11)兵糧運搬中の李豊
3日前の豪雨による土石で、李豊が進路をふさがれる。李豊はヒャクジョウ山(?)を越える小道を通り、できる限りの兵糧を担いで運ぶよう命ずる。
(12)諸葛亮の軍営
李豊が到着。李豊は諸葛亮に、道が土石でふさがったため、兵士たちに兵糧を担いで運ばせたことを伝える。
諸葛亮は、25年前に臥竜岡で設計した木牛流馬を思い出す。諸葛亮は図面を見せたうえで楊儀に命じ、陣中の職人に300台造らせて兵糧の運搬に用いる。
(13)司馬懿の軍営
司馬昭が司馬懿に、剣閣の桟道が土石で崩れたため、蜀軍は兵糧を担いでヒャクジョウ山を越えるしかなく、崖から落ちて死者も出ており、拒馬寨(きょばさい)で立ち往生していると伝える。
司馬懿は司馬昭に5千の兵を預け、拒馬寨付近に潜み、蜀軍がキ山の本営へ兵糧を運び込むところを襲うよう命ずる。加えて、拒馬寨を焼き払えとも。
(14)拒馬寨
司馬昭が孫礼とともに蜀の輜重(しちょう)部隊を襲撃。蜀軍が兵糧の運搬に用いていた木牛流馬を持ち帰る。
★ここで蜀軍が使っていたのは木牛だけだった気がする。ただ正史『三国志』でも、木牛や流馬の構造には不明な点が多い。
(15)司馬懿の軍営
司馬懿が郭淮(かくわい)に命じ、蜀軍から奪ってきた木牛流馬と同じ物を造らせ、自軍の兵糧運搬に用いる。
★ここで孫礼が司馬懿に、「千斤の荷が積めるのに、車輪がひとつあるきり。人が通れる道は、これも通れます……」と言っていた。積載可能量は何を根拠にしているのかわからなかった。
管理人「かぶらがわ」より
鄭文の偽装投降に引っかかり、数千の精鋭を失う魏延。相変わらず兵糧に苦しむ蜀軍。
打開策として木牛流馬の投入を決断する諸葛亮。結局、いつも兵糧のことが問題になっています。やはり常に守る形の魏のほうが有利ですよね。
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