劉備(りゅうび)ひきいる義勇軍は、涿郡太守(たくぐんたいしゅ)の劉焉(りゅうえん)から歓迎された。
ところが、青州(せいしゅう)の大興山(たいこうざん)で劉焉配下の鄒靖(すうせい)の先陣に加わってみると、わずか500余騎で5万の黄巾賊(こうきんぞく)に当たることになる。
第010話の展開とポイント
(01)涿郡の府城
劉備は先に関羽(かんう)に書状を託し、幽州(ゆうしゅう)の涿郡太守である劉焉のもとに遣り、自分たち義勇軍の受け入れの可否を尋ねさせていた。
劉焉は劉備らを歓迎する態度を示した。また関羽が、義弟の張飛(ちょうひ)が捕吏や兵士を殺傷した件の免罪を乞うたため、それ以来、張飛を捕らえるための役人はやってこなかった。
★張飛が捕吏や兵士を殺傷したことについては、先の第7話(03)を参照。ただ、そこでは捕吏自身は逃げ去っており、彼がひきいていた10人ほどの兵士の半数が殺害されたとあった。
約束した日に劉備らが到着すると、劉焉は劉備・関羽・張飛の3人を居館へ招き、歓迎の宴を張る。
★『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第1回)では歓迎の宴に関する記述はなかったものの、劉備が家系の由来を説明したところ劉焉が大いに喜び、彼を甥分としたとある。
ちょうどこのころ、青州大興山の付近一帯にいた5万以上と言われる黄巾賊に対し、劉焉は配下の校尉(こうい)の鄒靖に大軍を付けて当たらせていた。
劉備は関羽と張飛の言葉に同意し、劉焉の許しを得て鄒靖の先陣に加わることにする。
(02)大興山のふもと
劉備ら500余騎が日ならずして到着したところ、5万の黄巾賊は険に拠って利戦を策し、山あいや谷あいに散らばり長期戦に備えていた。
★劉備の部隊が200余人から500余騎に増えていたが、経緯はよくわからず。劉焉が兵を付けたわけではないようなので、さらに義勇兵が集まってきたと解釈すべきか?
なお井波『三国志演義(1)』(第1回)では、劉備らが楼桑村(ろうそうそん)を発つときに、村の荒くれ者500人を引き連れていたとあった。そのためここに挙げたような疑問は感じられない。
劉備は長期戦を避け、一気に勝負を決するべく賊軍に挑む。初めは弓や弩(ど)で応戦する賊軍だったが、劉備らの兵が少数で正規兵にも見えなかったことから、柵を開いて出撃してくる。
張飛が賊の大方(だいほう)の程遠志(ていえんし)を討ち取り、関羽も副将の鄧茂(とうも)を討ち取ると、賊軍はあわて乱れて山谷の中に逃げ込んだ。劉備らはこれを追撃。賊の首を1万余も挙げ、降人は容れて部隊に加えた。
★井波『三国志演義(1)』(第1回)では程遠志を討ち取ったのが関羽で、鄧茂を討ち取ったのが張飛となっている。
(03)涿郡の府城
劉備らが凱旋(がいせん)し劉焉の出迎えを受ける。ほどなく青州から早馬が着き、青州太守の龔景(きょうけい)の援軍要請を伝える。
ここでも劉備が援軍として赴くことを願い出ると、劉焉は喜んで鄒靖の5千余騎に加え、彼の義軍をその先鋒とした。
★青州太守は官職名としておかしい。青州刺史(せいしゅうしし)とすべきか? なお龔景は正史『三国志』に見えない人物。
(04)青州(臨淄〈りんし〉?)の近郊
劉備は先の初陣で難なく勝利を収めたことから、数万の賊軍に500余騎で当たってみるが、危うく全滅を免れて30里も退く。そこで関羽の献策を容れ、総大将の鄒靖とも相談して作戦を立て直す。
★井波『三国志演義(1)』(第1回)では、このとき作戦を立てたのは劉備自身。
そして関羽は約1千の兵をひきいて右翼となり、張飛も同数の兵をひきいて丘の陰に潜む。本軍の鄒靖と劉備は正面から進み、敵の主力部隊に総攻撃の態を示しながら、頃合いを計ってわざと逃げ乱れた。
図に乗った賊軍が陣形もなく追撃してくると、本軍が反転してぶつかり、丘陵の陰や広野の黍(キビ)の中から飛び出した関羽と張飛の両軍が、敵の主力を包み込んで殲滅(せんめつ)にかかった。
(05)青州(臨淄?)の城下
劉備らが逃げる賊軍を追って青州の城下まで迫ると、援軍の来訪に力を得た城内の青州兵が城門を開いて打って出る。賊軍は城下に火を放ったが、その炎を墓場として自滅するかのような敗亡を遂げた。
(06)青州(臨淄?)の城内
青州太守の龔景は鄒靖や劉備らを重く賞し、城内は三日三晩にわたり、昼も夜も歓呼の音楽と万歳の声に満ちあふれた。
鄒靖は軍勢をまとめて幽州へ引き揚げたが、その際に劉備は、少年時代に教えを受けた恩師の盧植(ろしょく)が中郎将(ちゅうろうしょう)として広宗(こうそう)で戦っていることを伝える。
そして自分たちは広宗へ行き、盧植の軍勢に加勢したいとして、劉焉への伝言を頼んで別れた。
(07)広宗 盧植の本営
兵士から劉備の来訪を伝えられても、すぐには思い出せない盧植。涿県の楼桑村で読み書きを教わったとも伝えられると思い出し、呼び入れて対面する。
★ここで盧植が討匪将軍(とうひしょうぐん)の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を帯びていたという記述があったが、史実の盧植はこのとき北中郎将(ほくちゅうろうしょう)だった。
劉備は参戦を許され、2か月ほど盧植の軍を助けていた。だが、賊軍は官軍の3倍の大軍を擁しており、その強さも比較にならないくらい優勢であることがわかってきた。そのためかえって官軍のほうが守勢になり、いたずらに滞陣が長引いているという状況だった。
そのうち盧植は、このまま広宗にいるよりも潁川(えいせん)に行き、皇甫嵩(こうほすう)と朱雋(しゅしゅん。朱儁)の両将軍を助けてほしいと頼む。劉備は快諾し、手勢の500に盧植が付けた1千余の兵を加えて潁川へ急いだ。
(08)潁川 官軍の本営
劉備は朱雋に会い、盧植の牒文(ちょうぶん。文書を記すための薄い札〈牒〉に書かれた文)を示して挨拶した。しかし朱雋は、劉備らが雑軍だったため冷淡な応対に終始する。
(09)潁川 官軍の前線にある陣地
劉備は、一面の原野と湖沼が広がる地勢を見て一策を案ずる。
★井波『三国志演義(1)』(第1回)では、ここで皇甫嵩が朱儁に火攻めを提案していた。
その夜、二更(午後10時前後)のころ、劉備は一部の兵を迂回(うかい)させて敵の後ろに回し、関羽や張飛とともに真っ暗な野を這(は)い敵陣へ近づく。そして、兵ひとりが10把(ぱ)ずつ背負った松明(たいまつ)に火を付けさせると、一斉になだれ込んだ。
そこへ紅色の装備で固めた将にひきいられた5千騎の官軍が現れる。劉備が名乗ったところ、その将は旗本の7騎とともに近づいてきた。
「曹操(そうそう)」と名乗った将は、貴軍の火攻めの計に乗じて多数の賊を討つことができたと言い、劉備とともに勝利の凱歌(がいか)を上げる。
兵をまとめて本営へ引き揚げたが、途中で劉備は曹操と話す時間を得、兵法と学識を備えた、深みや広さのある人物だと感ずる。
(10)潁川 官軍の本営
朱雋は劉備の武功を喜ばず、すぐに広宗へ引き返し、盧植軍に加勢するよう命ずる。しかも兵馬の休息は、たったひと晩しか認めなかった。
★井波『三国志演義(1)』(第1回)では、劉備らがこのときの(長社県〈ちょうしゃけん〉での)戦いに加わっていない。彼らが到着したのは、すでに賊軍が退散した後だったとある。
管理人「かぶらがわ」より
初めての実戦を経験する劉備の義軍。広宗の戦場に颯爽(さっそう)と登場する曹操でしたが、紅色の装備というのは目立ちすぎなのでは?
この第10話は場面転換が多く、まとめるのが難しかったです。劉備たちがあっちこっちと動き回りましたから……。それにしても、吉川『三国志』の朱雋は度量が小さい。
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