新妻の承諾を得たうえで密かに孫権(そんけん)のもとを離れ、荊州(けいしゅう)への帰路を急ぐ劉備(りゅうび)主従。
ほどなく孫権や周瑜(しゅうゆ)の手配した追手に阻まれたが、この危機を新妻の一喝で退ける。
第175話の展開とポイント
(01)柴桑(さいそう)の郊外
劉備らは夜も日も馬に鞭(むち)打ち続け、ようやく柴桑へ近づく。劉備はややホッとしたが、夫人の呉氏(ごし)は何と言っても女性の身、騎馬の疲れは思いやられた。
★ここで劉備の夫人を呉氏としていたのは誤り。彼女は孫堅(そんけん)の娘なので、正しくは孫氏。ちなみに呉氏は生母の姓である。
だが、幸いにも途中の一豪家で車を求めることができ、夫人は車の内に移る。そして、なお道を急いで落ち延びた。
やがて山の一方から大声がする。約500の兵がふた手になり追ってきたのだ。趙雲(ちょううん)は劉備と夫人を先へ行かせ、後に残って防ぐ。
この日の難は一応逃れたかにみえたが、次の日、また次の日と、劉備の道は先へ行くほどふさがれていた。柴桑の周瑜と呉の孫権の廻符(かいふ)は、もう八方に行き渡っていたのである。
水路も陸路も、往来には木戸の改めが厳重を極め、要所は徐盛(じょせい)と丁奉(ていほう)の部下3千が遮断していた。
劉備が痛嘆すると趙雲は、軍師の諸葛亮(しょかつりょう)があらかじめこういう場合にも、囊(ふくろ)の中から訓(おし)えられていますと言い、耳に何かささやく。
★趙雲が諸葛亮から3つの錦囊を渡されたことについては、先の第172話(04)を参照。
劉備は夫人の車へ近づき、追手が前後に迫っていると告げ、ここで自害すると言いだす。
そこで夫人は劉備を車の後ろに隠し、駆けつけた徐盛と丁奉を叱りつける。夫人が細腰に帯している小剣の柄に手をかけ、激しい言葉を吐くと、ふたりはまったく慴伏(しょうふく。恐れてひれ伏すこと)した。
これを見た夫人は車の内に移り、たちまち道を急がせる。劉備も馬の背に伏して駆け通り、500の兵も足を速めた。
徐盛と丁奉は、趙雲が道端で殿軍(しんがり)をしていたため、むなしく一行をやり過ごし、やがて2、3里ばかり戻っていく。
彼方(かなた)から来た陳武(ちんぶ)と潘璋(はんしょう)は、徐盛と丁奉から話を聞くと、ふたりにもついてくるよう言い、さらに劉備を追う。
劉備らは長江(ちょうこう)の岸に沿って急いだが、また呼び止める者があるので、騒然一団になって立ちよどむ。
夫人は再び車から降り、やってきた陳武らの無作法を叱る。すると追手の4人の大将は、むなしく夫人の車を見送ってしまう。このときも、趙雲が一手の軍兵をもって最後まで4人の前に殿軍していたため、手出しはおろか、私語をする隙間もなかった。
4人が十数里も戻ってくると、一彪(いっぴょう)の軍馬と颯爽(さっそう)たる大将が来て呼びかけた。見れば蔣欽(しょうきん)と周泰(しゅうたい)だった。
陳武が面目なげに不首尾を語ると、蔣欽は4人を励まし、主君がお手ずから我らに剣をお預けになったと言う。
徐盛と丁奉は先回りして周瑜にこの由を伝え、水上より早舟を下して江岸と江上をふさぐ。蔣欽・周泰・陳武・潘璋の4人は陸路を追い詰めることになった。
(02)劉郎浦(りゅうろうほ)
劉備らは柴桑の城市を横に見、郊外を遠く迂回(うかい)して、「劉郎浦」と呼ぶ一漁村までたどり着く。ところがどうしたことか、漁村らしいのに舟は一艘(いっそう)も見当たらない。
★『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「劉郎浦は劉郎洑ともいう。後漢(ごかん)では荊州南郡(なんぐん)に属した。なお、この地名は実際には三国時代以後に登場した地名であり、唐宋(とうそう)時代の書物には、劉備が呉の孫権の妹を娶(めと)ったところとして記されている」という。
失望する劉備に趙雲が言う。
「いや、まだご失望は早すぎます。いま例の錦の囊の最後のひとつを開いてみました」
★ここで「例の錦の囊の最後のひとつを開いてみました」とあった。この第175話(01)でも囊の中の訓えがどうのこうのと言っていたので、そのときに最後(3つ目)の錦の囊を開いたのかと思っていた。開いた錦囊の数に勘違いがあるのかも?
★ちなみに『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第55回)では、この第175話(01)の徐盛と丁奉の軍勢が現れたところで、最後(3つ目)の錦の囊を開いたことになっていた。なので、この第175話(02)に相当する場面では錦の囊は(すでに3つすべてを開いたため)開いていなかった。
「すると、このような文が現れました。劉郎浦頭蘆荻(ろてき)答エン。博浪激波シバシ追ウモ漂イ晦(くら)ムナカレ。破車汗馬ココニ業ヲ終エテ一舟ニ会セン」
「察するところ、軍師孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)には必ず何かよろしき遠謀があるに違いありません。まずまず、あまりお案じなさいますな」
ほどなく山際の辺りの夕雲がムクムクと動き、鼓の声や銅鑼(どら)が水に響く。言うまでもなく、ここに包囲を計った追手の大軍だった。
だがここで、郎浦湾の渚(なぎさ)の数里にわたる蘆荻が一度にそよぎ立つ。見れば葭(ヨシ)や蘆(アシ)の間から帆を立て、櫓(ろ)を押し出した20余艘の快足舟(はやぶね)がある。
これらの舟は岸に漕(こ)ぎ寄せるやいな、「乗りたまえ、早く早く」「皇叔(こうしゅく。天子〈てんし〉の叔父。ここでは劉備のこと)、いざ疾(と)く」と、手を打ち振って口々に呼ぶ。
その中に、いま舟底から這(は)い出し、ともども呼んでいた道服(道士の服)の一人物があった。ひと目に知れる頭の綸巾(かんきん。隠者がかぶる青糸で作った頭巾。俗に「りんきん」と読む)、すなわち諸葛孔明だった。
管理人「かぶらがわ」より
夫人の機転と趙雲の活躍に加え、諸葛亮の錦囊に救われ、危地からの脱出が見えた劉備。周瑜が引き立て役に見えますけど、これは史実の周瑜像とはだいぶ懸け離れたものです。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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