吉川『三国志』の考察 第213話「藤花の冠(とうかのかんむり)」

左慈(さじ)は魏王宮(ぎおうきゅう)落成を祝う大宴を台なしにしたうえ、痛烈な曹操(そうそう)批判を繰り返す。

そして宴席から姿を消すと、曹操の命を受けた許褚(きょちょ)の追跡もかわしたが、ほどなく人相書きそっくりの左慈が各地で捕らえられる。

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第213話の展開とポイント

(01)鄴都(ぎょうと) 魏王宮

左慈が嬋娟(せんけん)たる牡丹(ボタン)の大輪を咲かせてみせると、王宮の千客は目をこすり合う。

そこへ各人の卓上に、庖人(ほうじん)が魚の鱠(なます)を供えた。左慈は一眄(いちべん)し、人もなげに言う。

「魏王が一代のごちそうと言ってもいい大宴に、名も知れぬ魚の料理とは貧弱ではないか。大王、なぜ松江(しょうこう)の鱸(スズキ)をお取り寄せにならなかったのか?」

曹操は赤面しながら、客の百官に言い訳をする。

「温州(うんしゅう)の果実はともかく、鱸と言っては生きていなければ値打ちがない。何で千里の松江から活けるまま持ってこられよう」

だが、左慈は造作もないと言い、釣り竿(ざお)を借りて玄武池(げんぶち)に糸を垂れる。

玄武池については前の第212話(02)を参照。

水は満々とそよぎ立ち、左慈の袖が翻るたび、たちまち大きな鱸が何尾も釣り上げられた。それでも曹操は、いま釣ったのは池に放しておいた鱸だと言う。

これに左慈が反論し、松江の鱸には必ず鰓(えら)が4枚あるが、ほかの鱸には2枚しかないと言う。試みに客が調べてみると、どれもこれも正しく4枚あった。

曹操も客も、愕然(がくぜん)たらざるはなかったが、なお何かで困らせてくれんものと、また左慈に言った。

「いにしえから、松江の鱸を鱠にして賞味するときには、必ず紫芽(しげ)の薑(はじかみ。生姜〈ショウガ〉)をツマに添えるという。薑はあるか?」

左慈が「お安いこと」と左の袂(たもと)へ手を入れると、幾つかみもの薑を黄金の盆に盛ってみせた。

怪しんだ曹操は、近侍の者に盆を持ってくるよう命ずる。するといつの間にか、盆の薑は一巻の書物に変わっていた。見ると『孟徳新書(もうとくしんしょ)』という題簽(だいせん)が付いている。

『孟徳新書』については先の第188話(01)を参照。

曹操は皮肉を感じてむっとしたが、いずれは打ち殺さんという肚(はら)があるので、さりげなく聞いた。

「左慈。これは誰の書いた書物か?」

左慈は答えて言う。

「はははは。さて誰の著書でしょうな。どうせ大したものじゃありますまい」

試みに曹操が手に取って開いてみると、自分の書いたものと一字一句も違わない。いよいよ心中に、この怪士、生かしおくべからずと誓った。

左慈は曹操のそばへ進んで言う。

「大王に不老の千載酒(1千年の寿命が得られる酒)を差し上げよう」

そう言うと冠の上の玉を取り、杯の中ほどに一線を描き、その半分を自分が飲んでから献ずる。曹操が酒を含んでみると、まるで水っぽくて飲めたものではない。

『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第68回)では、曹操はこの酒を飲んでいなかった。

思わず杯を下に置き、癇癪(かんしゃく)を破裂させようとした刹那、左慈はサッと手を伸ばして杯を奪い取り、堂の天井へ向かって放り上げた。

人々はアッと目を上げる。杯は一羽の白鳩(シロバト)に変じ、羽ばたきして飛び回っている。あるいは低く降りて酒をこぼし、花を倒し、客の肩や顔に戯れ回って果てしない。

満座みな怪しみうろたえているうち、いつの間にか左慈の姿は消えていた。曹操は宮門を閉じるよう命じたが、もう左慈と思われる老人が城外の街をうろついているという。

曹操は許褚に命じ、いかなる犠牲を払っても捕らえてくるよう命ずる。大げさにも許褚は万一を思い、親衛軍中の屈強な500騎をひきいて追いかけた。

井波『三国志演義(4)』(第68回)では、許褚は300の鉄騎(精鋭の騎兵)をひきいて左慈を追っている。

(02)鄴都の郊外

許褚は左慈に追いついたと思ったが、いかに悍馬(かんば)に鞭(むち)を打っても、少しもその後ろ姿に近づくことができない。やがて山のふもとまで来ると、部下の500騎に命じて弓で射止めようとした。

ところが、彼方(かなた)の左慈の姿は矢の先に消え、悠々と地上に遊んでいる羊の群れだけがあった。許褚は駆けつけるやいな、数百匹の羊を一匹残らず打ち殺す。

そして引き返してくると、途中でおいおいと泣いている童子に出会う。「こら、童子。何を悲しむか?」と尋ねると、彼は恨めしそうに言った。

「おらの飼っている羊を自分の手下に殺させておきながら、何を悲しむかもないもんだ。馬鹿野郎!」

童子は罵って逃げ出す。部下のひとりは、あれも怪しいと矢をつがえ、後ろから放った。だがいくら射ても、矢はヘロヘロと地に落ちてしまう。その間に童子はわが家に飛び込み、もっと大きな声で泣き抜いていた。

(03)鄴都 魏王宮

翌日、童子の親が魏王宮へ謝りに来た。

昨日、家の腕白がお城の大将に向かって、羊を殺されたいまいましさのあまり、悪口を叩いて逃げたそうですが、今朝起きてみると、一夜のうちに死んだ羊がみな生き返り、いつものように牧場で群れ遊んでいる。

不思議でたまらないが、事実なので、何はともあれ、小倅(こせがれ)の罪をお詫びに参りました、と言うのである。

許褚の報告を聞いていたところへ、またこの奇怪な訴え。曹操は悪寒がしてきた。

「どうあっても捜し出せ。どうあっても打ち殺してしまわねばならん」

王宮の画工を呼び、左慈の肖像を描かせる。その人相書きを原本とし、各地に数千枚の同じ図を配布した。

「召し捕りました」「捕らえました」と、3日もするうちに、郡県から4、500人も同じ左慈を差し立ててくる。王宮の獄は左慈だらけになってしまった。

井波『三国志演義(4)』(第68回)では、左慈そっくりの風体の者が3、400人も捕らえられたとあった。

そのどれを見ても、びっこで眇(すがめ)である。そして藤の花を挿し、青い衣を着ている。

「よいよい。いちいち調べるのも煩わしい」

曹操は命じて、城南の練兵場に破邪の祭壇をしつらえさせる。そこへ羊や猪(イノコ)の血を注ぐと、4、500人の左慈を数珠つなぎに引き、一斉に首を刎(は)ねてしまう。

すると屍(しかばね)の山から一道の青気が上り、空中に霧のごとく、ひとりの左慈が姿を見せた。彼は白い鶴に乗っていた。魏王宮の上を悠々と飛翔(ひしょう)しながら、やがて手を打ち叩き、宇宙から呼ばわる。

「玉鼠(ぎょくそ)金虎ニ随(したが)ッテ、奸雄(かんゆう)一旦ニ休(や)マン」

井波『三国志演義(4)』(第68回)では、「土の鼠(ネズミ)が金の虎に従うとき、奸雄も一巻の終わりだ」とあった。

井波『三国志演義(4)』の訳者注によると、「(『土の鼠が……』は)曹操が庚子(かのえね)の年(建安〈けんあん〉25〈220〉年)に死ぬことを暗示する」という。また「鼠は十二支の子。西の方位は五行では金、十干では庚辛(かのえかのと)、星宿では白虎にあたる。『土の鼠が金の虎に従う』とは子が庚に従う、すなわち庚子のこと」ともいう。

曹操は諸将に下知し、雲も裂けよと弓鉄砲を撃ちかけた。たちまち狂風が吹き起こり、沙(いさご。砂)を飛ばし、石を奔らせ、人々は地に面を覆い、天に目をふさいだ。

この日、太陽は妙に白っぽく、雲は酔人の目のように赤い無数の虹を帯びていた。市人も耕田の農夫も「これはいったい何の兆しだろう?」と恐れ怪しみながら、呆然(ぼうぜん)と天地を仰いでいた。

だがその間に、城南の練兵場から黄色い砂塵(さじん)が漠々と走り、王宮の門を入っていったのを見た者があるという。

後で聞けば。練兵場に積み上げられた4、500の屍が、瞬く間にムクムクと起きだし、ひとかたまりの濛気(もうき)となって王宮内へ流れ入った。

やがてそれは池畔の演武堂に走り上がり、4、500体の左慈そのままな姿の妖人が、怪しげな声を張り、奇なる手ぶりや足ぶりをして、約一刻の間も舞い狂っていたということだった。

さしも豪胆な魏の諸将も、これにはみな震え上がり、曹操もまた諸人に助けられ、後閣に狂風を避けた。

その夜から曹操は、「何となく悪寒がする」とか、「風邪ぎみのせいか、物の味が悪い」などと言い始めていた。

管理人「かぶらがわ」より

左慈劇場が最高潮となり、魏王宮は左慈だらけ。左慈が曹操を翻弄(ほんろう)するという設定は、かなり安易な曹操貶(おと)しだと思うのですけど……。吉川先生の巧みな描写は、そのあたりの不満を打ち消すほど素晴らしいものでした。

テキストについて

『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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