【姓名】 孫観(そんかん) 【あざな】 仲台(ちゅうだい)
【原籍】 泰山郡(たいざんぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第071話で初登場。
【演義】 第018回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・臧霸伝(そうはでん)』に付された「孫観伝」あり。
臧霸組のひとり
父母ともに不詳。孫康(そんこう)は兄。息子の孫毓(そんいく)は跡継ぎ。
184年、黄巾(こうきん)の乱が起こると、孫観は臧霸とともに(陶謙〈とうけん〉に従って)討伐にあたり、騎都尉(きとい)に任ぜられる。
そして徐州(じょしゅう)で兵を駆り集め、呉敦(ごとん)や尹礼(いんれい)らとともに臧霸を首領に推し立てて開陽(かいよう)に駐屯した。
194年、曹操(そうそう)が呂布(りょふ)討伐に乗り出すと、臧霸らは兵をひきいて呂布を助ける。
198年、呂布が下邳(かひ)で処刑された後、臧霸らは身を隠した。曹操は懸賞金を出して臧霸を捕らえたものの、会ってみて気に入る。
そこで曹操は臧霸に命じ、呉敦・尹礼・孫観、および孫観の兄の孫康らを招かせたため、みな出頭した。
曹操は臧霸を琅邪国相(ろうやこくしょう)に任じたうえ、呉敦を利城太守(りじょうたいしゅ)に、尹礼を東莞太守(とうかんたいしゅ)に、孫観を北海太守(ほっかいたいしゅ)に、孫康を城陽太守(じょうようたいしゅ)に、それぞれ任じた。
その後、孫観は臧霸とともに数々の戦闘に加わったが、常に先鋒を務める。こうして青州(せいしゅう)と徐州で賊の平定に活躍した。
孫観は臧霸に次ぐ功を上げ、呂都亭侯(りょとていこう)に封ぜられた。
205年、曹操が南皮(なんぴ)で袁譚(えんたん)を討ち破ると、臧霸は祝賀に集った機会に、自分の子弟や旧知の諸将の家族を鄴(ぎょう)へ移住させたいと願い出る。
これを受けて、孫観も子弟を鄴へ住まわせることにした。ほどなく偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられ、青州刺史(せいしゅうしし)に昇進する。
212年、曹操の孫権(そんけん)討伐に付き従って濡須口(じゅしゅこう)まで進んだ際、孫観は節(せつ。権限を示すしるし)を授かる。
孫観はこのときの戦いで流れ矢を受け、左脚を負傷。それでも力を尽くして戦い続け、けがのことを顧慮しなかった。
後に振威将軍(しんいしょうぐん)に転じたが、矢傷がひどく、ついに亡くなって(時期は不明)しまう。息子の孫毓が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には記事が少なく、上で挙げたものは本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によるところが大きいです。そのほか『三国志』(魏書・臧霸伝)からも関連記事を拾いました。
この「臧霸伝」の裴松之注に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、臧霸とその仲間たちにはそれぞれ別名があったそうで、臧霸は奴寇(どこう)、孫観は嬰子(えいし)、呉敦は黯奴(あんど)、尹礼は盧児(ろじ)と言ったのだとか。
孫観の場合は、仲間内で臧霸を推し立てた判断がよかったと思います。
曹操と会った臧霸が気に入られなければ、呂布に味方したことで、当然、彼らも討伐の対象になっていたはずなので……。
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