建安(けんあん)12(207)年、孫権(そんけん)の母の呉氏(ごし)が大病を患い、娘(孫権の妹)のことを託して息を引き取った。
そして翌建安13(208)年、孫権は母の遺言である劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)討伐に乗り出すが、ちょうど黄祖のもとを離れた甘寧(かんねい)がやってくる。
第136話の展開とポイント
(01)丹陽(たんよう。丹楊)
孫高(そんこう)と傅嬰(ふえい)はその夜すぐに50人の兵士を連れ、戴員(たいいん)の屋敷を襲って首を取る。
★『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第38回)では、戴員も嬀覧(ぎらん)と同じく徐氏(じょし)に宴会に招かれ、(孫高と傅嬰の手で)殺されたとあった。
徐氏は喪服を着け、亡夫の孫翊(そんよく)の霊を祭り、嬀覧と戴員の首を供えて誓う。
「お恨みは晴らしました。私は生涯、他家へは嫁ぎません」
この騒動を聞いた孫権は驚き、兵をひきいて丹陽に駆けつけると、孫翊の殺害に関わった一類の者をことごとく誅殺。孫高と傅嬰を牙門督兵(がもんとくへい)に任じた。
★井波『三国志演義(3)』(第38回)では、孫高と傅嬰は牙門将(がもんしょう)に任ぜられたとある。
また弟の妻たる徐氏には禄地を与え、郷里の家へ帰す。江東(こうとう)の人々は彼女の貞烈をたたえ、呉の名花と語り伝えて史冊にまで名を書きとどめた。
★井波『三国志演義(3)』(第38回)では、孫権は徐氏を家に連れて帰り、先々の面倒を見ることにしたとある。
(02)呉城(ごじょう)
それから3、4年間の呉はしごく平和だったが、建安12(207)年の冬10月、孫権の母の呉夫人が大病にかかった。呉夫人は危篤の中、張昭(ちょうしょう)や周瑜(しゅうゆ)を呼び、孫権の補佐を頼む。
そして孫権に末の妹のことを託すと、忽然(こつぜん)、息を引き取った。
★ここで呉夫人が、自分の妹も後堂にいると言い、今後は母として仕えるよう孫権を諭していた。吉川『三国志』では先の第33話(06)で、呉夫人の妹も孫堅(そんけん)の側室として(名のみ)登場させていたが、正史『三国志』には見えない設定。
さらに呉夫人が、長男の孫策(そんさく)と三男の孫翊が亡くなり、残っているのは孫権と末の妹のふたりだけだと言っていたが……。これは孫権の弟の孫匡(そんきょう)を失念している。
しかも同じく先の第33話(06)では、(正室の)呉氏の妹にあたる寵姫が孫朗(そんろう)という男子と仁(じん)という女子を生んだ、ともしていたので、ここで妹(孫仁)に触れるなら孫朗にも触れておくべきだろう。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』によると、孫堅の末子の孫朗は庶子であり、一名を孫仁と言ったとある。
つまり仁(孫仁)は孫朗の別名だが、吉川『三国志』ではそれぞれを別人(同母姉弟)として登場させている。こういう事情があるため、読み手には孫権のきょうだいが把握しにくい。
孫権は父の高陵(こうりょう)の傍らに、棺槨(かんかく。柩〈ひつぎ〉。棺は死体をじかに入れる箱。槨は棺を入れる外側の箱)衣衾(いきん。衣服と夜着。遺骸を包むためにも用いる)の美を供えて厚く葬る。
歌舞音曲の止まること月余、ただ祭祠(まつり)の鈴音と鳥の鳴く声ばかりだった。
喪の冬は過ぎ、翌建安13(208)年に入る。孫権は早くも衆臣を集め、黄祖討伐を評議にかけた。
張昭は、まだ呉夫人の忌年も巡ってこないうちに、兵を動かすのはいかがなものかと反対。一方で周瑜は、黄祖を討てというのは呉夫人のご遺言のひとつだったとし、喪にこだわることはないと賛成。
方針を決しかねていたところ、都尉(とい)の呂蒙(りょもう)が龍湫(りゅうしゅう)からやってきて、甘寧が亡命を求めていると伝える。
★井波『三国志演義(3)』(第38回)では平北都尉(へいほくとい)の呂蒙とある。
甘寧は劉表配下の黄祖のもとに留まっていたが、いくら功を立てても下役の端に飼われているにすぎなかった。
黄祖配下の蘇飛(そひ)はそのような彼を深く哀れみ、早く他国へ去り、良主を求めるよう勧める。そして甘寧を鄂県(がくけん)の吏として移すよう取り計らい、そのときに逃げ去るよう言った。
★井波『三国志演義(3)』(第38回)では、蘇飛は甘寧が邾県長(ちゅけんちょう)に任ぜられるよう取り計らっている。
こうして甘寧は任地へ行く舟と偽ると、幾夜となく江を下り、ようやく呉の領土までやってきたのだという。孫権は登用を決めると、さっそく引見して黄祖打倒の計を聞く。
甘寧は荊州(けいしゅう)の現状を語り、江夏(こうか)の黄祖も衰えが目立ち、攻めればたちどころに崩壊するだろうと述べた。
話を聞いた孫権は、周瑜に兵船の準備を言いつける。なお張昭は出兵を諫めたが、孫権は心を決めたと言って衆議を抑えた。
周瑜が大都督(だいととく)に任ぜられ、呂蒙を先手の大将とし、董襲(とうしゅう)と甘寧を両翼の副将として、10万の軍勢は長江(ちょうこう)をさかのぼり江夏へ押し寄せる。
★董襲は先の第59話(03)であざなの元代(げんだい)として既出。
(03)江夏
急報を受けた黄祖は蘇飛を大将とし、陳就(ちんじゅ)と鄧龍(とうりゅう)を先鋒として、江上で迎撃するべく兵船を押し出す。孫権軍は沔口(べんこう)を制圧し、市街の湾口へ詰めていく。
黄祖軍は小舟を集めて江岸一帯に舟の寨(とりで)を作り、大小の弩弓(どきゅう)を一斉に射かける。散々に射立てられた孫権軍の船は針路を乱して逃げ惑い、水底に張り巡らされていた大縄に櫓(ろ)を奪われ、舵(かじ)を折った。
しかし、甘寧が董襲と示し合わせて決死の敵前上陸の合図を出すと、たちまち100余艘(そう)の早舟が江上に下ろされ、20人、30人と、死を物ともせぬ兵士たちが飛び乗る。
★井波『三国志演義(3)』(第38回)では、ここで甘寧が敵の艨艟艦(もうしょうかん。突撃艦)に飛び移り、鄧龍を斬り殺したとあった。吉川『三国志』では鄧龍の死に触れていない。
陳就は舟手の先陣が敗れたのを見ると、二陣へ退がって陸の柵を固めた。だが、いち早く上陸した呂蒙が陳就に一槍(いっそう)を見舞い、倒れたところ大剣で首を挙げる。
ここで舟手を救おうと、蘇飛が江岸まで馬を進めた。孫権軍の将士は功に逸(はや)って群がったが、蘇飛の周りに死屍(しし)を積み重ねるばかり。
すると潘璋(はんしょう)がまっすぐに近づき馬上のまま引っ組むと、鞍脇(くらわき)に抱えて味方の船まで帰ってきた。孫権は蘇飛をにらみつけ、檻車(かんしゃ)に放り込み本国へ差し立てる。
★ここで孫権は蘇飛を見て、「わが父孫堅を殺した敵将はこいつだ」と言っていた。だが先の第34話(02)では、孫堅の致命傷となった大小の岩石を落としたのは劉表配下の呂公(りょこう)ということになっている。なぜ蘇飛がここまで恨まれているのかよくわからなかった。
管理人「かぶらがわ」より
甘寧の亡命を受け入れ、黄祖討伐に動きだす孫権。孫権のきょうだいについては正史『三国志』と設定が異なるので、きちんと整理しないとわかりにくいと感じました。
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