吉川『三国志』の考察 第177話「文武競春(ぶんぶきょうしゅん)」

袁紹(えんしょう)をはじめとする袁氏一門を滅ぼした後、曹操(そうそう)は鄴城(ぎょうじょう)に築かせた銅雀台(どうじゃくだい)で盛宴を催す。

武官には弓の腕前を競わせ、文官には詩の出来を競わせるなど、まさに文武競春の趣だった。だが、この場に劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)に関する急報が届く。

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第177話の展開とポイント

(01)鄴城 銅雀台

冀北(きほく)の強国である袁紹が滅び、今年で9年目。

ここは建安(けんあん)7(202)年の袁紹の死から数えて9年目になる。

その後、袁紹の息子の袁譚(えんたん)は建安10(205)年に討ち死にし、続いて袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)も、建安12(207)年に公孫康(こうそんこう)に殺害された。

こうして人文すべて改まったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変わらなかった。建安15(210)年の春、鄴城の銅雀台は足かけ8年にわたる大工事の落成を告げた。

鄴城が陥落したのは建安9(204)年のことで、袁紹の死と同年ではない。建安9(204)年から足かけ8年だと建安16(211)年になってしまう。ただ、吉川『三国志』は袁紹の死を早めて描いており、そのあたりからくる年数のズレかもしれない。

曹操は許都(きょと)を発する。諸州の大将や文武の百官も祝賀の大宴に招かれ、鄴城の春は車駕(しゃが。本来は天子〈てんし〉の乗る車の意)金鞍(きんあん)に埋められた。

そもそも、この漳河(しょうが)の流れに臨む楼台を「銅雀台」と名付けたのは、9年前に曹操が北征してここを占領した際、地下から青銅の雀(スズメ)を掘り出したことに由来する。

このあたりのことは『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第34回)にも見える。

城から望んで左の閣を玉龍台(ぎょくりゅうだい)といい、右の高楼を金鳳台(きんほうだい)という。いずれも地上から10余丈の大廈(たいか)である。

空中には虹のような反り橋を架けて玉龍金鳳を一郭とし、それを巡る千門万戸も、後漢(ごかん)文化の精髄と芸術の粋を凝らしたもの。

金壁銀砂は目もくらむばかりであり、直欄横檻(おうかん)の珠玉は目に映じ、「ここはこの世か、人の住む建築か」と、たたずむ者をして恍惚(こうこつ)と疑わしめるほどだった。

曹操の台下に文武の大将が侍立すると、万歳を唱え、みな杯を挙げて祝賀した。

曹操は座興を考えていたが、やがて左右に命じて秘蔵の赤地錦の戦袍(ひたたれ)を取り寄せ、それを広苑(ひろにわ)の彼方(かなた)にある高い柳の枝に掛けさせる。

そして、武臣の列に向かって言った。

「おのおのの弓を試みん。柳を隔つこと100歩。あの戦袍の赤い胸当てを射た者には戦袍を褒美に取らすであろう。我と思わん者は出て射よ」

希望して出た者たちは二列を作り、柳に対する。曹氏の一族はみな紅袍(こうほう)を着け、外様の諸将はみな緑袍(りょくほう)を着けていた。

ここで曹操は、射損じた者には罰として漳河の水を腹いっぱい飲ますぞと言い、自信のない者は今のうちに列から下がるよう促す。だが、誰も退かなかった。

合図の鉦鼓(かねつづみ)が鳴ると、とたんに曹操の甥の曹休(そうきゅう)が馬を出し、見事に的を射止める。

しかし、丞相(じょうしょう。曹操)の賞はご一族で取るなかれと呼ばわりながら文聘(ぶんぺい)が馬を駆けさせると、これもまた的を射止めた。続いて駆け出た曹操の従弟の曹洪(そうこう)や夏侯淵(かこうえん)も的を射当てる。

曹洪は先の第30話(01)第49話(02)では曹操の弟とあった。曹操の従弟とするのが正しいが、弟と従弟が同義に使われているケースも多いので気にしないほうがよさそう。

井波『三国志演義(4)』(第56回)では、このあたりで張郃(ちょうこう)の名も見えるが、吉川『三国志』では採られていない。

さらに、徐晃(じょこう)が放った矢は柳の枝を射切り、紅錦の袍はひらひらと地に落ちてきた。駆け寄った徐晃は戦袍をすくい取り、背中に打ち掛ける。

すると、台下に立つ群将の中から許褚(きょちょ)が駆け出し、物も言わずに徐晃の弓を握るや、いきなり馬上から引きずり下ろした。

とうとうふたりは引っ組んで四つになり、もろ倒れになって散々な肉闘をみせた。このため、肝心な戦袍もズタズタに引き裂いてしまう。

曹操は台上から苦笑し、引き分けるよう命ずる。そして徐晃や許褚をはじめ、弓に鍛えを表した諸将を呼ぶと、それぞれに蜀江(しょっこう)の錦を一匹ずつ分け与えた。

その後、酒がたけなわのころ、曹操は文官たちに詩を作ってみるよう促す。

まず王朗(おうろう)が立ち、一詩を賀唱すると、曹操は大いに興じ、特に秘愛の杯に酒を注ぎ、「杯ぐるみ飲め」と言って与えた。

続いて東武亭侯(とうぶていこう)で侍中尚書(じちゅうしょうしょ)の鍾繇(しょうよう)が立ち、七言八絶を高吟する。曹操は激賞し、賞として一面の硯(すずり)を与えた。

井波『三国志演義(4)』(第56回)では王朗と鍾繇に加え、王粲(おうさん)や陳琳(ちんりん)らも詩を献じたとある。

曹操は「あぁ、人臣の富貴、いま極まる」と左右の者に述懐しつつ、これまでの出来事を省みる。また数杯を傾けると筆と硯を持ってこさせ、自ら即興の詩句を書き始めた。二句まで書きかけたところへ、許都からの早打ちが駆け込んでくる。

呉(ご)の孫権が華歆(かきん)を使者に立て、劉備を荊州太守(けいしゅうたいしゅ)に推薦し、天子(献帝〈けんてい〉)に表を奉り、許しを仰いでいるという。それも事後承諾の形なのだと。

のみならず孫権は旧怨を捨て、妹を劉備に嫁がせたうえ、婚姻の引き出物として、荊州9郡の大半も劉備に属するものと成り終わったのだとも。

井波『三国志演義(4)』(第56回)では、華歆は許都で曹操の帰還を待っていたのではなく、許都を経て鄴までやってきたことになっていた。

曹操が思わず筆を取り落とすと、程昱(ていいく)が筆を拾って献策。すぐに許都へお帰りあって呉使の華歆と会われ、引き留めておかれるようにと。

そのうえで、孫権が頼みにしている周瑜(しゅうゆ)を南郡太守(なんぐんたいしゅ)に、程普(ていふ)を江夏太守(こうかたいしゅ)に、それぞれ任ずるよう取り計らうのだとも。

加えて程昱は、南郡と江夏は劉備が領有しているから、おそらくこの旨を華歆に伝えてもお受けしないだろうと言い、華歆には官職を与えてしばし朝廷に留め置き、別に勅使を下して周瑜や程普に伝えさせるのだとも述べた。

その夕、曹操は銅雀台の遊楽も半ばに、にわかに車駕を整え、許昌(きょしょう)の都へ帰っていく。

(02)許都

そして曹操は、華歆を大理寺少卿(だいりじしょうけい)に任じて都へ留める一方、程昱の献策通りに勅命を乞い、呉の国へ勅使を下した。

井波『三国志演義(4)』(第56回)では大理少卿とあった。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「『三国志演義』では華歆が大理少卿の官職に就いたことになっているが、後漢・三国時代にはこの官名はなかった」という。

また「曹操は大理卿という官職を置いたが、これは廷尉(ていい)の前身であり、鍾繇がこの任にあたった。一方『魏書(ぎしょ)・華歆伝』によれば、華歆は大理卿に任ぜられたことはない」ともいう。

管理人「かぶらがわ」より

タイトル通り、銅雀台での文武の競演が描かれていた第177話。「競春」という表現が巧いなぁと感じました。

改めて見ても曹操の配下は多士済々。劉備や孫権のところも、だいぶ充実してきてはいるのですけどね……。

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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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