劉巴(りゅうは)A ※あざなは子初(ししょ)

【姓名】 劉巴(りゅうは) 【あざな】 子初(ししょ)

【原籍】 零陵郡(れいりょうぐん)烝陽県(じょうようけん)

【生没】 ?~222年(?歳)

【吉川】 第194話で初登場。
【演義】 第062回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉巴伝』あり。

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いったん劉備(りゅうび)を避けたものの、結局は仕えることになった名士

父は劉祥(りゅうしょう)だが、母は不詳。

劉巴は若いころから有名で、たびたび荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)に招かれ、茂才(もさい)に推挙されたものの、いずれにも応じなかった。

208年、曹操(そうそう)が荊州へ進出し、時を同じくして劉表が死去すると、樊城(はんじょう)にいた劉備は江南(こうなん)へ逃走した。

この際、荊や楚(そ)の士人は雲のごとく劉備に付き従ったが、劉巴は曹操のもとへ行った。

劉巴は曹操から掾(えん)に任ぜられ、長沙(ちょうさ)・零陵・桂陽(けいよう)の3郡を帰順させるよう命ぜられる。

しかし、劉備がこの3郡を先に攻略してしまったため、劉巴は役目を果たすことができず、そのまま遠く交阯(こうし。交趾)に向かう。劉備は劉巴が去ったと聞き、たいそう残念がったという。

その後、劉巴は交阯から蜀へ入る。

214年、劉備が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降すと、劉巴は先の罪(劉備ではなく曹操のもとへ行ったこと)を陳謝したが、劉備はとがめなかった。

さらに諸葛亮(しょかつりょう)が称賛して推薦したので、劉巴は召されて左将軍西曹掾(さしょうぐんせいそうえん)に任ぜられた。

このとき劉備は漢(かん)の左将軍だった。

219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)になると、劉巴は尚書(しょうしょ)に転じ、後に法正(ほうせい。220年没)に代わって尚書令(しょうしょれい)を務めた。

劉巴は清潔で質素な暮らしを実践し、財産を増やそうとしなかったという。

また、劉備に仕えた経緯が自分の意思に沿ったものではなかったので、他人に疑いを持たれることを恐れ、慎んで沈黙を守り、退庁後に個人的な交際をせず、公事に関係のない発言も控えた。

221年、劉備が帝位に即くと、皇天上帝(こうてんじょうてい。天の神)と后土神祇(こうどしんぎ。地の神)にその旨を報告したが、このときの文章や任命書などは、みな劉巴の起草したものだった。

翌222年、劉巴は死去した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『零陵先賢伝(れいりょうせんけんでん)』には、劉巴と張飛(ちょうひ)にまつわる話が載せられていました。

あるとき張飛が、劉巴のところに泊めてもらったことがあったそうです。このとき劉巴は言葉を交わそうとせず、張飛を激怒させました。

この話を聞いた諸葛亮が、劉巴に言います。

「張飛はまったくの武人ながら、きみを敬慕している。それに主公(劉備)は今まさに文武の力を結集し、大業を定めようとしておられる。あなたは高い天分をお持ちだが、いくらかご自身の思いを抑えていただきたい」

すると劉巴が応えました。

「大丈夫(だいじょうふ)の処世というのは、四海の英雄と交際するのが当然です。なぜ武人などと語り合う必要がありましょうか」

劉巴から見れば、いくら将軍の張飛でも、自分の話し相手としては甚だ不足だったのですね。それにしても、名士と呼ばれる人たちの扱いは難しい。

とはいえ『三国志』(蜀書・伊籍伝〈いせきでん〉)には、劉巴が、諸葛亮・法正・李厳(りげん)・伊籍とともに蜀科(蜀の法律)を作ったともあるので、蜀のためにしっかり働いていた様子はうかがえます。

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