279年(晋の咸寧5年・呉の天紀3年)の主な出来事

-279年- 己亥(きがい)
【晋】 咸寧(かんねい)5年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 天紀(てんき)3年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
(鮮卑の)虜帥の樹機能(じゅきのう)が、晋の涼州を攻め落とす。
『晋書』(武帝紀)

【01月】
乙丑(いっちゅう)の日(1日)、朔(さく)
晋の討虜護軍・武威太守の馬隆(ばりゅう)が樹機能を攻撃する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
甲午(こうご)の日(1日)、朔
白麟(はくりん)が、晋の平原(地名)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
匈奴都督の抜弈虚(ばつえききょ)が、部落の構成員をひきいて晋に帰化する。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
乙亥(いつがい)の日(12日)
晋の司馬炎が、民が飢えに苦しんでいるため、自身の食膳を半分に減らす。
『晋書』(武帝紀)

【03月】
乙亥の日(12日)
彗星が柳宿(二十八宿のひとつ)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
また彗星が女御(じょぎょ)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
晋の司馬炎が大赦を行う。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
晋の司馬炎が、部曲督以下から質任(人質)を取ることをやめる。
『晋書』(武帝紀)

【04月】
丁亥(ていがい)の日(?日。5月25日が「丁亥の日」だが……)
晋の8つの郡国で雹(ひょう)が降り、秋の作物を傷つけ、民家が壊れる。
『晋書』(武帝紀)

【夏】
呉の郭馬(かくば)が反乱を起こす。郭馬は、もともと合浦太守の脩允(しゅういん)配下の私兵の隊長だった。

この脩允が死去すると、配下にいた兵士は別々の部署に配属されることになった。郭馬らは父祖以来ひとつの軍団をなしてきたので、皆が離ればなれになるのを望まなかった。

ちょうどこのころ、孫晧は、広州の戸籍を正確に調べて課税しようと考えた。

郭馬は、私兵内の部将だった何典(かてん)・王族(おうぞく)・呉述(ごじゅつ)・殷興(いんこう)らと共謀し、孫晧の思惑に乗じて兵士や民の不安を煽(あお)り、人数を集めて広州督の虞授(ぐじゅ)を攻め殺した。

郭馬は、勝手に都督交広二州諸軍事・安南将軍と号し、殷興は広州刺史と、呉述は南海太守と、それぞれ号した。何典は蒼梧郡へ兵を進め、王族は始興郡へ兵を進めた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『漢晋春秋』…呉が滅亡するという予言について。

⇒08月
呉の孫晧が、軍師の張悌(ちょうてい)を丞相に、牛渚都督(ぎゅうしょととく)の何植(かしょく)を司徒に、それぞれ任ずる。

さらに、執金吾の滕循(とうじゅん)が司空に任ぜられることになったものの、任命前に鎮南将軍・仮節・領広州牧に職を改められた。こうして滕循は1万の兵をひきい、東から郭馬の討伐に向かうことになった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【07月】
彗星が紫宮(紫微宮)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【09月】
甲午の日(4日)
麟が、晋の河南に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【秋】
呉の滕循が、始興で王族の軍勢と遭遇したため先に進めなくなる。そのうちに郭馬は南海太守の劉略(りゅうりゃく)を殺害し、広州刺史の徐旗(じょき)を追い払った。

そこで孫晧は、さらに徐陵督の陶濬(とうしゅん)を遣わし、7千の兵をひきいて西の道を取らせた。

また交州牧の陶璜(とうこう)には、配下に加え、合浦や鬱林(うつりん)などの諸郡の兵をまとめてひきいるように命じ、東西から向かった両軍に共同で郭馬を攻めさせた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【秋】
呉の孫晧が、工匠の黄耇(こうこう)を侍芝郎に、同じく工匠の呉平(ごへい)を平虜郎に、それぞれ任じ、銀印青綬(せいじゅ。青色の組み紐〈ひも〉)を授ける。

黄耇の家に生えた鬼目菜(きもくさい)が芝草(しそう。霊芝〈レイシ〉)と、呉平の家に生えた買菜(ばいさい)が平虜草(へいりょそう。虜〈あだ〉を平らげる草)と、それぞれ鑑定されたことによるもの。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【10月】
戊寅(ぼいん)の日(19日)
匈奴余渠都督(きょうどよきょととく)の独雍(どくよう)らが、部落の構成員をひきいて晋に帰化する。
『晋書』(武帝紀)

【10月】「汲冢書(きゅうちょうしょ)の発見」
戊寅の日(19日)
晋の汲郡(きゅうぐん)の人である不準(ふじゅん)が、(戦国時代の君主である)魏の襄王(安釐王〈あんきおう〉ともいう)の墓を掘り、竹簡や小篆(しょうてん)で書かれた古書10余万言を手に入れる。これらは秘府に収蔵された。
『晋書』(武帝紀)

汲冢書が見つかった年については、太康(たいこう)2(281)年などの異説がある。

【11月】「晋の大攻勢」
晋の司馬炎が、大規模な呉の討伐軍を挙げ、鎮軍将軍・琅邪王(ろうやおう)の司馬伷(しばちゅう)を涂中(とちゅう)に、安東将軍の王渾(おうこん)を江西に、建威将軍の王戎(おうじゅう)を武昌に、平西将軍の胡奮(こふん)を夏口に、鎮南大将軍の杜預(とよ)を江陵に、それぞれ出撃させる。

また、龍驤将軍(りょうじょうしょうぐん)の王濬(おうしゅん)と広武将軍の唐彬(とうひん)には巴蜀の水軍をひきいて長江を下らせ、東西の晋軍は合わせて20余万となった。

そして、太尉の賈充(かじゅう)を大都督に、行冠軍将軍の楊済(ようせい)をその副に、それぞれ任じ、全軍を統率させた。
『晋書』(武帝紀)

杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

⇒冬
晋の司馬炎が、鎮東将軍の司馬伷に涂中への進軍を命ずる。

また、安東将軍の王渾と揚州刺史の周浚(しゅうしゅん)には牛渚(ぎゅうしょ)へ、建威将軍の王戎には武昌へ、平南将軍の胡奮には夏口へ、鎮南将軍の杜預には江陵へ、それぞれ進軍するように命じた。

さらに、龍驤将軍の王濬と広武将軍の唐彬には、軍船をひきいて長江を下るよう命じた。

この際、司馬炎は太尉の賈充を大都督に任じたうえ、「情勢を見ながら最も重要な場所を見極め、全軍の中心となって取りまとめにあたるように」と命じた。

呉の陶濬は、郭馬征伐のために武昌まで来たところだったが、北方の晋軍が大挙して押し寄せてきたと聞くと、武昌に軍勢を留め、広州へは向かわなかった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【12月】
晋の(討虜護軍・武威太守の)馬隆(ばりゅう)が、反虜の樹機能を大破して斬り、涼州を平定する。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
粛慎が晋に来朝し、楛矢(こし。にんじんぼくに似た落葉高木。矢を作るのに用いた)と石砮(せきど。石のやじり)を献上する。
『晋書』(武帝紀)

【?月】
元来、呉の孫晧が群臣を集めて宴を催すときには、いつも皆が酔いつぶれるまで飲ませていた。その際は黄門郎から10人を選び、彼らにだけ酒を与えず、ずっとそばに立たせておき、過失を取り締まる役とした。

宴が果てた後、黄門郎らに宴席での群臣の失態を余さず上奏させ、すべて摘発した。大きな過失を犯した者は即座に厳刑に処し、小さな過失であっても必ず罰を与えた。

また、後宮にはすでに数千人の女性がいたが、孫晧は新しい宮女を入れ続けた。宮中に川を引き入れ、意に沿わない宮女がいると、みな殺して川に流した。人の顔の皮を剝いだり、目をえぐったりもした。

岑昬(しんこん)は、ずる賢く立ち回り、孫晧の寵愛を受けて九卿の位にまで昇った。

岑昬は土木工事を好み、民を労役に駆り出したので、人々はひどく苦しんだ。こういったこともあって上下の人心が離れ、誰も孫晧のために力を尽くさなくなってしまった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

裴松之注(はいしょうしちゅう)…呉の滅亡後、晋の侍中の庾峻(ゆしゅん)らが、孫晧配下の侍中だった李仁(りじん)に、孫晧が行ったという残虐な行為について尋ねた話。

この(「孫晧伝」の)記事は、孫晧の日ごろの行いをまとめたものらしいが、ここでいきなり持ち出されたことには違和感もあった。

特記事項

この年は特になし。

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