吉川『三国志』の考察 篇外余録(3)「魏から――晋まで(ぎから――しんまで)」

視点を魏(ぎ)に転じ、もうひとつの落日賦(らくじつふ)を描いた篇外余録の3話目。

蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)のたび重なる侵攻を防ぎきった魏の曹叡(そうえい)だったが、3代目のお約束にはまってしまう……。

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篇外余録(3)の全文とポイント

(01)三国、晋(しん)一国となる

孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)の歿後(ぼつご)、魏は初めて、枕を高うして眠ることを得た。年々の外患もいつか忘れ、横溢(おういつ)する朝野の平和気分は、自然、反動的な華美享楽となって現れだした。

この兆候は、下よりまず上から先に出た。大魏皇帝の名をもって起工された洛陽(らくよう)の大土木の如きがその著しいものである。朝陽殿(ちょうようでん)、大極殿(たいきょくでん)、総章観(そうしょうかん)などが造営された。

また、これらの高楼、大閣のほかに、崇華園(すうかえん)、青宵院(せいしょういん)、鳳凰楼(ほうおうろう)、九龍池(きゅうりゅうち)などの林泉や別荘が人力と国費を惜しみなくかけて造られた。これに動員された人員は、天下の工匠3万余、人夫30万といわれている。

まさに、国費の濫費である。曹叡ほどな明主にして、なおこの弊に落ちたかと思うと、人間性の弱点の陥るところみな軌を一にしているものか、或(ある)いは、文化の自然循環と見るべきものか。

いずれにせよ、彫梁(ちょうりょう)の美、華棟の妍(けん)、碧瓦(へきが)の燦(さん)、金磚(きんせん)の麗、目も綾(あや)なすばかりである。豪奢(ごうしゃ)雄大、この世に譬(たと)えるものもない。

――が、たちまち一面に、民力の疲弊という暗い喘(あえ)ぎが社会の隅から夕闇のように漂い出した。巷(ちまた)の怨嗟(えんさ)。これはもちろん伴ってくる。

この上にも曹叡は、「芳林閣(ほうりんかく)の改修をせよ」と、吏を督して、民間から巨材を徴発し、石や瓦や土を引く牛のために、民の力と汗を無限に濫用した。

「武祖(ぶそ)曹操(そうそう)様すら、こんな贅沢と乱暴はなさいませんでした」と、諫めた公卿(くげ)もある。もちろん曹叡には肯(き)かれない。のみならず斬首された者もあった。

反対に、こういう甘言を呈する者もある。

「人は、日精月華の気を服せば、つねに若く、そして長命を保ちます。――いま長安宮中(ちょうあんきゅうちゅう)に柏梁台(はくりょうだい)を建て、銅人を据えて、手に承露盤を捧げさせるとします。すると盤には毎夜三更(午前0時前後)の頃、北斗から降る露が自然に溜ります」

「これを天漿(てんしょう)とよび、また天甘露(てんかんろ)と称(とな)えています。もしそれ、その冷露に美玉の屑末(しょうまつ)を混じて、朝な朝なご服用あらんか、陛下の寿齢は百載(100年)を加え、御艶(おんつや)もいよいよ若やいでまいるにちがいありません」

こういう言を歓ぶようになっては、曹叡の前途も知るべしである。

が、魏の国運は、なお旺(さかん)だった。これはおそらく良臣や智識が多かったに依るであろうが、曹操以来の魏は、何といっても、士馬精鋭であり、富強であった。

中でも、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)は、魏にとっては、まず当代随一の元勲だった。自然、彼の一門は、隆々、勢威を張るにいたった。

(蜀の)延熙(えんき)14(251)年、魏の嘉平(かへい)3年。その仲達は歿して、国葬の大礼をもって厚く祭られ、遺職勲爵は、そのまま息子の司馬師(しばし)が継いだ。

司馬懿は、魏の嘉平3(251)年8月に崩御(ほうぎょ)した。

ところが、この師も、間もなく逝去した。弟、昭(しょう)が跡目をついだ。

司馬師は、魏の正元(せいげん)2(255)年閏1月に崩御した。

昭は一時、大いに威を振るい、大魏大将軍(たいぎだいしょうぐん)になり、また、晋王(しんおう)の九錫(きゅうしゃく)をうくるにいたって、ほとんど、帝位に迫るの勢威を示した。

司馬昭は、魏の景元(けいげん)4(263)年10月に晋公(しんこう)に封ぜられ、九錫を受けた。さらに翌景元5(264)年3月には晋王に昇った。

この昭が終ると、その子の、司馬炎(しばえん)が王爵をついで立った。魏の朝廷は、このときすでに元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉)の代に入っていたが、炎は、この元帝を退位させて、自ら皇帝となり、新国家の創立を宣した。

これが、晋の武帝(ぶてい)である。

司馬昭は、魏の咸熙(かんき)2(265)年8月に崩御し、息子の司馬炎が晋王の位と官職を受け継いだ。さらに同年12月、司馬炎は魏の曹奐(元帝)の禅譲を受けて帝位に即いた。

かくて、魏は、曹操以来5世、46年目で亡(ほろ)んだことになる。――それはまた実に、蜀の滅亡後、わずかに3年目のことだった。

魏蜀を併合して、晋一体となったこの国が、なお呉(ご)を余していたのは、呉に間隙がなかったによる。

とき呉の孫権(そんけん)もすでに世を去り、次代の孫晧(そんこう)の悪政が、南方各地の暴動を醸すにいたるまでは、長江(ちょうこう)の嶮(けん)と、江東(こうとう)海南(かいなん)の地を占めるこの国の富強と、建業(けんぎょう)城中の善謀忠武の群臣は、なお多々健在であったといえる。

孫権は、呉の神鳳(しんぽう)元(252)年4月に崩御した。

しかし、敗るるや、急激だった。4世52年にわたる呉の国業も、孫晧が半生の暴政によって一朝に滅んだ。

――陸路(くがじ)を船路を、北から南へ北から南へと駸々(しんしん)と犯し来れるもののすべてそれは新しき国の名を持つ晋の旗であった。

三国は、晋一国となった。

孫晧は天紀(てんき)4(280)年3月、晋軍の総攻撃を受けて降伏し、呉は滅亡した。

管理人「かぶらがわ」より

400年の長きにわたって命脈を保った漢(かん)が滅び、三国が出現し、60年余りで晋一国になる――。

「諸行無常」という言葉がありますが、『三国志』に触れると、「まさにその通りだな」としみじみ感じます。

この壮大な物語を傍らに置き、毎日をありのまま、淡々と過ごしていきたいものです。

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