【姓名】 王朗(おうろう) 【あざな】 景興(けいこう)
【原籍】 東海郡(とうかいぐん)郯県(たんけん)
【生没】 154~228年(75歳)
【吉川】 第059話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王朗伝』あり。
経書の学識を背景に三公まで昇る、蘭陵成侯(らんりょうせいこう)
父母ともに不詳。兄がいたが、こちらも名は不詳。息子の王粛(おうしゅく)は跡継ぎで、ほかにも息子がいたことがうかがえる。
王朗は経書に通じていたことから郎中(ろうちゅう)となり、菑丘県長(しきゅうけんちょう)に任ぜられた。彼は太尉(たいい)の楊賜(ようし)に師事していたが、185年に楊賜が死去すると官を捨てて喪に服す。
★范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)によると、「185年10月、司空(しくう)の楊賜が死去した」とある。ただ、楊賜は太尉を務めたこと(182年10月~184年4月)がある。こういう場合は高位の官名のほうを記すものらしい。初めはわかりにくいと思ったが、考えてみれば当然か。
後に孝廉(こうれん)に推挙されて三公の役所から招聘(しょうへい)されたものの、これに応じなかった。次いで徐州刺史(じょしゅうしし)の陶謙(とうけん)から茂才(もさい)に推挙される。
190年、献帝(けんてい)が董卓(とうたく)の意向により長安(ちょうあん)へ遷(うつ)され、関東(かんとう。函谷関〈かんこくかん〉以東の地域)では兵乱が起こった。
王朗は陶謙の治中(ちちゅう)となり、別駕(べつが)の趙昱(ちょういく)らとともに進言。勤皇の姿勢を示すため長安へ使者を遣り、謹んで詔(みことのり)を承るべきだと勧めた。
陶謙は進言を容れ、趙昱に上奏文を持たせて長安へ遣わす。
献帝は、陶謙の心を嘉(よみ)して安東将軍(あんとうしょうぐん)に任じたうえ、趙昱を広陵太守(こうりょうたいしゅ)に、王朗を会稽太守(かいけいたいしゅ)に、それぞれ取り立てた。
196年、孫策(そんさく)が江東(こうとう)の攻略を進め、会稽郡に迫る。
王朗配下の功曹(こうそう)の虞翻(ぐはん)は力で防ぐことはできないと見て、敵の鋭鋒を避けるほうがよいと考えた。
だが、王朗は漢(かん)の官吏であることから、城邑(まち)を守るべきだと考える。
そこで孫策と戦ったものの敗れ、海を渡り東冶(とうや)まで逃げた。さらに追撃を受けて大破されると、孫策のもとに出頭する。
しかし孫策は、王朗が儒学の教養のある人物ということで、問責しただけで殺さなかった。
198年、曹操(そうそう)の上奏によって召されると、王朗は曲阿(きょくあ)から長江(ちょうこう)と海を行ったり来たりしながら、何年もかけてたどり着く。そして諫議大夫(かんぎたいふ)・参司空軍事(さんしくうぐんじ)に任ぜられた。
★曹操が司空を務めていた期間は196~208年。
213年、魏が建国されると、軍祭酒(ぐんさいしゅ)の身分のまま魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)を兼任。後に少府(しょうふ)、奉常(ほうじょう)、大理(だいり)を歴任する。
王朗は大理として裁判を担当すると寛容に努め、罪状に疑義があれば軽いほうを採用した。鍾繇(しょうよう)も優れた洞察力によって法を運用したが、王朗は彼ともども裁きの見事さをたたえられたという。
220年2月、曹丕(そうひ)が魏王を継ぐと、王朗は御史大夫(ぎょしたいふ)に昇進し安陵亭侯(あんりょうていこう)に封ぜられる。
同年10月、曹丕が帝位に即くと位を改められて司空となり、楽平郷侯(らくへいきょうこう)に爵位が進んだ。
★この年、御史大夫を改称して司空としたもの。
223年、鵜鶘(ペリカン)が霊芝池(れいしち)に群がる。これを受けて曹丕は公卿(こうけい)に詔を下し、独行の君子(世俗に左右されない立派な人物)を推挙するよう命じた。
王朗は光禄大夫(こうろくたいふ)の楊彪(ようひゅう)を推挙したうえ、病気を理由に自分の地位を譲る。
そこで曹丕は楊彪のために属官を置き、三公に次ぐ位を与えた。さらに王朗には詔を下して復帰を求め、王朗もこれを受け入れた。
226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと司徒(しと)に転じ、蘭陵侯に爵位が進んで500戸の加増を受ける。以前と合わせて封邑(ほうゆう)は1,200戸となった。
王朗は『易(えき)』『春秋(しゅんじゅう)』『孝経(こうきょう)』『周官(しゅうかん。周礼〈しゅらい〉)』の注釈を著した。また、彼の奏議(上奏文)・論(議論)・記(記事)はみな世に伝わったという。
228年、王朗が75歳で死去すると成侯と諡(おくりな)され、息子の王粛が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には晩年、王朗が司徒を務めていたとき、曹叡に皇子が少ないことを心配する上奏文を奉った記事が載せられており――。
むやみに後宮の女官を増やせばよいわけではなく、懐妊する可能性の高い者を厳選されたほうがよいと、かなり踏み込んだ進言をしています。
また、皇子らが幼少のころより、あまりに心地よく暖かな褥(しとね。敷物や布団)を用いているとも指摘。
これでは病気を防ぐことは難しく、(死の)悲嘆を招きやすいとし、幼少期に用いる綿入れを厚いものにしないようにと、過保護に育てないことを丁寧に勧めています。
実際、曹叡の実子は曹冏(そうけい。226年没)・曹穆(そうぼく。229年没)・曹殷(そういん。232年没)が早くに亡くなっていて、跡を継いだ曹芳(そうほう)は養子(出自も不詳)でした。
ただ、王朗の死後も皇子の夭折(ようせつ)が続いているところを見ると、彼の進言は生かされなかったようですね。
『三国志演義』(第93回)や吉川『三国志』(第281話)では、祁山(きざん)の陣頭で諸葛亮(しょかつりょう)に論破され、落馬して死んだことになっている王朗。
このあたりはまったくの創作ということで、だいぶ思い切ったなと驚かされました。
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