252年(魏の嘉平4年・蜀の延熙15年・〈呉の太元2年〉→〈神鳳元年〉→建興元年)の主な出来事

-252年- 壬申(じんしん)
【魏】 嘉平(かへい)4年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)15年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 (太元〈たいげん〉2年) → (神鳳〈しんぽう〉元年) → 建興(けんこう)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉) → 会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
癸卯(きぼう)の日(2日)
魏(ぎ)の曹芳が、撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)の司馬師(しばし)を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

【01月】
呉(ご)の孫権が、もとの皇太子の孫和(そんか)を南陽王(なんようおう)に封じて長沙(ちょうさ)に、息子の孫奮(そんふん)を斉王(せいおう)に封じて武昌(ぶしょう)に、同じく息子の孫休(そんきゅう)を琅邪王(ろうやおう)に封じて虎林(こりん)に、それぞれ置く。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【02月】
魏の曹芳が、張氏(ちょうし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【02月】「呉の改元」
呉の孫権が大赦を行い、「太元」を「神鳳」と改元する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【02月】「潘皇后(はんこうごう)の崩御(ほうぎょ)」
呉の潘皇后が崩御する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『三国志』(呉書・孫権潘夫人伝〈そんけんはんふじんでん〉)によると、「潘氏は陰険な性格で、多くの人々から恨まれていた。彼女が孫権の看病疲れで病気になり、寝ていたところ、宮女たちに縊(くび)り殺された」とある。

【02月】
呉の部将や官吏たちが、王表(おうひょう)のもとを訪れ、孫権のために福を乞うたところ、王表が逃亡する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

一応、2月のことと見たが、3月に入ってからのことかも?

【?月】
呉の孫権が危篤に陥り、諸葛恪(しょかつかく)・孫弘(そんこう)・滕胤(とういん)・呂拠(りょきょ)を召し寄せて後事を託す。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【04月】「孫権の崩御」
呉の孫権が崩御する。このとき71歳だった。孫権は大皇帝(たいこうてい)と諡(おくりな)された。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『三国志』(呉書・諸葛恪伝)によると、「呉の諸葛恪が、弟で公安督(こうあんとく)を務める諸葛融(しょかつゆう)に与えた手紙にいう」として、「今月(4月)乙未(いつび)の日(16日?)、大行皇帝陛下(孫権)は、万国の民を打ち捨てて崩御され、臣民たちは貴賤(きせん)を問わず、悲しみ悼まぬ者はない……」とある。

原文では今月16日乙未とあるが、4月の乙未の日は16日ではなく、26日だと思われる。

『傅子(ふし)』…孫策(そんさく)と孫権の活躍について。

【04月】「孫亮の即位と呉の改元」
呉の孫亮が帝位に即き、大赦を行う。また「神鳳」を「建興」と改元した。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

『三国志』(呉書・諸葛恪伝)によると、「呉の諸葛恪が、弟で公安督を務める諸葛融に与えた手紙にいう」として、「~皇太子殿下(孫亮)は丁酉(ていゆう)の日(28日)に帝位に登られ……」とある。

【04月】
呉の諸葛恪が、孫弘を殺害して実権を握る。
『正史 三国志8』の年表

【05月】
魏で、2匹の魚が武庫の屋根の上に現れる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…以前、呉の孫権が、東興隄(とうこうてい)を築いて巣湖(そうこ)をせき止めた。後年、魏が淮南(わいなん)を征討した際、その堤防は壊れてしまったが修復しなかった。

この年、呉の諸葛恪は、軍を指揮して堤防の左右を山につなぎ、その両端にふたつの城砦を築いて、全端(ぜんたん)と留略(りゅうりゃく)に守備を命じ、自身は軍をひきいて帰還した。

魏では諸葛誕(しょかつたん)が司馬師に、「呉の侵入を機会に、文舒(ぶんじょ。王昶〈おうちょう〉)を江陵(こうりょう)に迫らせ、仲恭(ちゅうきょう。毌丘倹〈かんきゅうけん〉)を武昌(ぶしょう)に向かわせ、呉の上流域の動きを封じてから精鋭を選(よ)り抜き、ふたつの城砦を攻められますように」と提案して容れられた。

【閏04月】
呉の孫亮が、諸葛恪を太傅(たいふ)に、滕胤を衛将軍(えいしょうぐん)に、それぞれ任じて尚書(しょうしょ)の職務を兼任させ、上大将軍(じょうだいしょうぐん)の呂岱(りょたい)を大司馬(だいしば)に任ずる。

これと同時に、もろもろの文武の官にある者の爵位を進めて恩賞を下賜し、一般の官吏もそれぞれ昇級させた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【07月】
呉の孫亮が、孫権を建業(けんぎょう)北郊の蔣陵(しょうりょう)に葬る。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【10月】
呉の太傅の諸葛恪が、軍をひきいて巣湖に向かい、その地で魏軍の侵出を押しとどめたうえ、東興に城を築く。そして将軍の全端を西城の守備に、都尉(とい)の留略を東城の守備に、それぞれ充てた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

⇒10月
呉の諸葛恪が、東興大堤(とうこうだいてい)とそれに付属するふたつの城を築く。
『正史 三国志8』の年表

【11月】
魏の曹芳が詔(みことのり)を下し、征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)の王昶、征東将軍(せいとうしょうぐん)の胡遵(こじゅん)、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の毌丘倹らに、呉の征伐を命ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【12月】
丙申(へいしん)の日(1日)、朔(さく)
呉で強風が吹き、雷も鳴る。魏は、将軍の諸葛誕や胡遵らに歩騎7万で東興を包囲させ、将軍の王昶には南郡(なんぐん)を攻めさせ、毌丘倹には武昌への進軍を命じた。

甲寅(こういん)の日(19日)
呉の諸葛恪が大軍をひきい、魏の侵攻に対抗するため出発する。

戊午(ぼご)の日(23日)
諸葛恪の軍勢が東興に到着する。ここで魏軍と交戦して大破し、魏の将軍の韓綜(かんそう)と桓嘉(かんか)らが戦死した。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

⇒12月
呉の大将軍(だいしょうぐん)の諸葛恪が、東関(とうかん)で魏軍を大破する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

ここでは大将軍の諸葛恪とあったが、『三国志』(呉書・孫亮伝)では太傅の諸葛恪としか書かれておらず、大将軍も兼ねていたのかよくわからなかった。

『漢晋春秋』…このとき呉に敗れた毌丘倹と王昶らの処分について。

司馬師が「公休(こうきゅう。諸葛誕)の言うことを聞かなかった私の過ちだ」として、敗走した魏の諸将をみな許した。なお、このとき司馬昭(しばしょう)が監軍(かんぐん)として諸軍を統帥していたので、彼の爵位を削ることですべての処分が決着した。

またこの年、魏の雍州刺史(ようしゅうしし)の陳泰(ちんたい)が司馬師に、「幷州(へいしゅう)と協力して蛮族を討伐したい」と申し入れて許された。しかしこの軍が結集する前に、雁門(がんもん)と新興(しんこう)の両郡が、遠方へ戦役に出向くことに動揺して反乱を起こした。

このときも司馬師は朝廷の人士に謝意を表し、「これは私の過失である。玄伯(げんぱく。陳泰)の責任ではない」と言った。魏の人々は赤面しつつも喜び、それぞれ司馬師に恩返ししたいものだと思った。

また「習鑿歯(しゅうさくし)はいう」として、司馬師がふたつの責めを負うたことについて、知恵者だと評価している。

⇒12月
呉の諸葛恪が東興の救援に赴き、丁奉(ていほう)らが魏軍に打撃を与える。
『正史 三国志8』の年表

【12月】
呉で雷雨があり、武昌の端門(たんもん。宮城の南の正門)が落雷によって焼ける。端門を作り直したところ、今度は内殿で火災が起こった。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

裴松之(はいしょうし)および『呉録(ごろく)』…このとき焼けた武昌宮についての考察。

【?月】
この年、蜀(しょく)の劉禅が、息子の劉琮(りゅうそう)を西河王(せいかおう)に封じた。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【?月】
この年、蜀の劉禅が詔を下し、大将軍の費禕(ひい)に幕府(大将軍府)を開かせた。
『三国志』(蜀書・費禕伝)

【?月】
この年、魏華存(ぎかそん)が生まれた。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(252年)に亡くなったとされる人物」
王儀(おうぎ)?応璩(おうきょ)韓綜(かんそう)孫権(そんけん)孫弘(そんこう)杜恕(とじょ)潘氏(はんし)B ※孫権の妻

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