192年(漢の初平3年)の主な出来事

-192年- 壬申(じんしん)
【漢】 初平(しょへい)3年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
丁丑(ていちゅう)の日(?日)
献帝が大赦を行う。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

【01月】「孫堅(そんけん)の死」
袁術(えんじゅつ)が部将の孫堅を遣わし、襄陽郡(じょうようぐん)の劉表(りゅうひょう)を攻めたものの、孫堅が戦死する。
『後漢書』(献帝紀)

⇒?月
この年、孫堅が袁術の命を受け、荊州(けいしゅう)の劉表を攻める。孫堅は劉表配下の黄祖(こうそ)を討ち破り、そのまま襄陽を包囲した。

しかし孫堅は、襄陽城外の峴山(けんざん)を単騎で通っていたとき、黄祖の軍卒が放った矢に当たって亡くなった。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝〈そんけんでん〉)

孫堅の死については時期を含め、ほかにも諸説がある。

【01月】
董卓軍(とうたくぐん)が、中牟(ちゅうぼう)で朱儁(しゅしゅん)を討ち破り、陳留(ちんりゅう)と潁川(えいせん)で略奪を働く。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【01月】「界橋(かいきょう)の戦い」
袁紹(えんしょう)と公孫瓚(こうそんさん)が界橋で戦い、公孫瓚が大敗する。
『後漢書』(献帝紀)

【春】
曹操(そうそう)が頓丘(とんきゅう)に布陣する。黒山(こくざん)の于毒(うどく)らは、その隙に東武陽(とうぶよう)を攻めた。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【?月】
曹操が兵をひきいて西方へ向かい、于毒らの本拠地である黒山を攻める。于毒らは東武陽を放置して引き返す。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が、眭固(すいこ)を待ち伏せて攻撃する。また、匈奴(きょうど)の於夫羅(おふら)を内黄(ないこう)で攻撃し、いずれも大勝した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【04月】「董卓の死」
司徒(しと)の王允(おういん)が、呂布(りょふ)と共謀して董卓を殺害する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒04月
辛巳(しんし)の日(23日)
太師(たいし)の董卓が誅殺され、その三族も皆殺しにされる。
『後漢書』(献帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「三族とは、父の一族、母の一族、妻の一族のことである」という。

後の249年1月の『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)の訳者注『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)によると、「三族とは、父母、妻子、兄弟姉妹のことである」という。

『角川 新字源 改訂新版』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、西田太一郎〈にしだ・たいちろう〉、赤塚忠〈あかつか・きよし〉、阿辻哲次〈あつじ・てつじ〉、釜谷武志〈かまたに・たけし〉、木津祐子〈きづ・ゆうこ〉編 KADOKAWA)には、まず「父族(父の一家の者)・母族・妻族」「父・子・孫」「父母・兄弟・妻子」「父の兄弟・母の兄弟・子の兄弟」の4つの項目が挙げられ、さらに「三族之刑」として「漢代、謀反・大逆の罪を犯した者は、父母・妻子・同産(兄弟姉妹)をも棄市(市場での首切り)に処する刑罰」との説明があった。

【04月】
献帝が、司徒の王允を録尚書事(ろくしょうしょじ)とし、朝廷の政務を総覧するよう命ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【04月】
献帝が、張种(ちょうちゅう)を山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)に遣わし、その地域の慰撫(いぶ)にあたらせる。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
青州(せいしゅう)の黄巾軍(こうきんぐん)100万が兗州(えんしゅう)に侵攻し、任城国相(じんじょうこくしょう)の鄭遂(ていすい)を殺害する。その後、黄巾軍は方向を転じて東平(とうへい)に進む。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)が、黄巾軍との戦いで戦死する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒04月
青州の黄巾賊が、東平国で兗州刺史の劉岱を殺害する。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
鮑信(ほうしん)らが、曹操を兗州牧(えんしゅうぼく)として迎え入れる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が、寿張(じゅちょう)の東で黄巾の大軍を討ち破る。この際に鮑信が戦死した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒冬
曹操が、さらに黄巾を済北(せいほく)まで追う。黄巾が降伏を願い出たため、曹操は降兵30余万に加え、兵卒以外の男女、合わせて100余万人を受け入れる。曹操は降兵の中から精鋭を吸収し、青州兵(せいしゅうへい)として再編制した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒04月
東郡太守(とうぐんたいしゅ)の曹操が、寿張県で黄巾賊を大破し、これを降伏させる。
『後漢書』(献帝紀)

この記事については、『三国志』のほうにある「冬」という部分が引っかかる。東平国の寿張県と済北国は近いので、地理的な関係はわかるが、多数の降兵を受け入れて青州兵を編制した時期については、イマイチよくわからなかった。

【?月】
王允が、蔡邕(さいよう)を投獄して獄死させる。
『正史 三国志8』の年表

【05月】
丁酉(ていゆう)の日(10日)
献帝が再び大赦を行う。
『後漢書』(献帝紀)

【05月】
丁未(ていび)の日(20日)
献帝が、征西将軍(せいせいしょうぐん)の皇甫嵩(こうほすう)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【05月】
董卓配下の部曲将(ぶきょくしょう)であった李傕(りかく)・郭汜(かくし)・樊稠(はんちゅう)・張済(ちょうせい)らが反乱を起こし、長安(ちょうあん)を攻める。
『後漢書』(献帝紀)

【06月】
戊午(ぼご)の日(1日)
李傕らの攻撃を受けていた長安城が陥落する。太常(たいじょう)の种払(ちゅうふつ)、太僕(たいぼく)の魯旭(ろきょく)、大鴻臚(だいこうろ)の周奐(しゅうかん)、城門校尉(じょうもんこうい)の崔烈(さいれつ)、越騎校尉(えっきこうい)の王頎(おうき)らはみな戦死し、吏民の死者も1万人余りに上った。李傕らはみな将軍を称した。
『後漢書』(献帝紀)

魯旭について、『三国志』(魏書・董卓伝〈とうたくでん〉)には魯馗(ろき)とあった。しかし『全譯後漢書 第2冊』の補注では、同じ「董卓伝」を出典に挙げたうえで魯旭としている。どちらかが誤っていると思われるが判断つかず。「董卓伝」の原文には魯馗とあるようだが……。

【06月】
己未(きび)の日(2日)
献帝がみたび大赦を行う。
『後漢書』(献帝紀)

【06月】
李傕が、司隷校尉(しれいこうい)の黄琬(こうえん)を殺害する。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
李傕と郭汜らが、王允を殺害したうえ呂布を攻める。敗れた呂布は東に向かい、武関(ぶかん)を出た。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒06月
甲子(こうし)の日(7日)
李傕が司徒の王允を殺害し、その一族も皆殺しにする。
『後漢書』(献帝紀)

【06月】
丙子(へいし)の日(19日)
献帝が、前将軍(ぜんしょうぐん)の趙謙(ちょうけん)を司徒に任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【07月】
庚子(こうし)の日(17日)
献帝が、太尉(たいい)の馬日磾(ばじってい)を太傅(たいふ)に任じたうえ、録尚書事とする。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】
献帝が、馬日磾と太僕の趙岐(ちょうき)に節(せつ。使者のしるし)を持たせて遣わし、各地の慰撫を命ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】
献帝が、車騎将軍の皇甫嵩を太尉に任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】
献帝が、司徒の趙謙を罷免する。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
李傕が自ら車騎将軍に就任し、郭汜を後将軍(こうしょうぐん)、樊稠を右将軍(ゆうしょうぐん)、張済を鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)とする。張済は長安を出て、弘農郡(こうのうぐん)に駐屯した。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
甲申(こうしん)の日(29日)
献帝が、司空(しくう)の淳于嘉(じゅんうか)を司徒に、光禄大夫(こうろくたいふ)の楊彪(ようひゅう)を司空に、それぞれ任じたうえ、ともに録尚書事とする。
『後漢書』(献帝紀)

【10月】
献帝が、劉表を荊州牧(けいしゅうぼく)に任ずる。
『正史 三国志8』の年表

先の190年の『正史 三国志8』の年表および『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表に、すでに同様の記事が見られた。内容がカブっている理由はわからず。

【12月】
献帝が、太尉の皇甫嵩を罷免し、光禄大夫の周忠(しゅうちゅう)を太尉に任じたうえ、参録尚書事(さんろくしょうしょじ)とする。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
袁術が袁紹と仲たがいする。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
袁術が公孫瓚に救援を要請する。これを受けて公孫瓚は、劉備(りゅうび)を高唐(こうとう)に、単経(ぜんけい)を平原(へいげん)に、陶謙(とうけん)を発干(はっかん)に、それぞれ駐屯させ、袁紹を圧迫した。

しかし、曹操が袁紹に協力してこれらを攻め、すべて討ち破った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
この年、公孫瓚が袁紹・曹操の連合軍に敗れ、幽州(ゆうしゅう)に逃走した。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【?月】
この年、韓遂(かんすい)と馬騰(ばとう)らが漢(かん)に降伏し、軍勢をひきいて長安に到着する。韓遂は鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)に任ぜられて涼州(りょうしゅう)へ帰り、馬騰は征西将軍に任ぜられて郿(び)に駐屯した。
『三国志』(魏書・董卓伝)

【?月】
この年、献帝が、陽安都尉(ようあんとい)の官を設置した。
『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)に引く『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』

ここでは、2県を分けて陽安都尉の官を設置したと書かれていたが、汝南郡(じょなんぐん)のどの2県を分けたのかわからず。陽安県と朗陵県(ろうりょうけん)か?

【?月】
この年、献帝が、琅邪(ろうや)・東海(とうかい)の両郡を分割し、城陽(じょうよう)・利城(りじょう)・昌慮(しょうりょ)の3郡を設置した。
『後漢書』(郡国志)の劉昭注に引く『魏氏春秋』

後の建安(けんあん)3(198)年の『三国志』(魏書・武帝紀)の記事にほぼ同様の内容が見られる。初平と建安で時期が違うのだが、どちらも3年の記事なので、一方が勘違いということもあり得るのか?

【?月】
この年、献帝が(会稽郡〈かいけいぐん〉の烏傷〈うしょう〉)県の南側の郷(県の管轄下に置かれた行政区画の単位)を分割し、長山県(ちょうざんけん)を設置した。
『後漢書』(郡国志)の劉昭注に引く『英雄交争記(えいゆうこうそうき)』

【?月】
この年、献帝が、(会稽郡の太末県〈たいばつけん〉を)分割して新安県(しんあんけん)を設置した。
『後漢書』(郡国志)の劉昭注

特記事項

「この年(192年)に亡くなったとされる人物」
王允(おういん)孫堅(そんけん)?董卓(とうたく)鮑信(ほうしん)劉岱(りゅうたい)B ※劉繇(りゅうよう)の兄

「この年(192年)に生まれたとされる人物」
曹植(そうしょく)

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