195年(漢の興平2年)の主な出来事

-195年- 乙亥(いつがい)
【漢】 興平(こうへい)2年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

月別および季節別の主な出来事

【01月】
癸丑(きちゅう)の日(11日)
献帝が大赦を行う。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

【春】
曹操(そうそう)が、定陶(ていとう)の呂布(りょふ)を攻める。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【02月】
乙亥の日(3日)
李傕(りかく)が樊稠(はんちゅう)を殺害したうえ、郭汜(かくし)とも戦う。
『後漢書』(献帝紀)

【03月】
丙寅(へいいん)の日(25日)
李傕が献帝を脅迫し、自分の陣営に行幸させたうえ、長安(ちょうあん)の宮室を焼く。
『後漢書』(献帝紀)

【03月】
朱儁(しゅしゅん)が憤死する。これ以後、献帝は関中(かんちゅう)の地を転々とすることになった。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒03月
李傕が献帝を自軍に拉致し、朱儁は憂死する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)の『三国志』年表

【04月】
甲午(こうご)の日(23日)
献帝が、貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)の伏氏(ふくし)を皇后に立てる。
『後漢書』(献帝紀)

⇒?月
伏氏が皇后に立てられ、その父である伏完(ふくかん)が執金吾(しつきんご)に任ぜられる。
『後漢書』(伏皇后紀〈ふくこうごうぎ〉)

【04月】
丁酉(ていゆう)の日(26日)
郭汜が李傕を攻め、その矢が献帝の御前まで及ぶ。この日、李傕は献帝を遷(うつ)し、北塢(ほくう)に行幸させた。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「『山陽公載記(さんようこうさいき)』に、『このとき弓と弩(ど)から矢が放たれ、矢が降ること雨のようで、(献帝の)御座する高楼の殿前の帷簾(いれん。垂れ幕とすだれ)にまで(矢が)及んだ』とある」という。

同じく李賢注によると「服虔(ふくけん)の『通俗文(つうぞくぶん)』に、『陣営のある堡塁(ほうるい)を塢といい、一名を庳城(ひじょう)という』とある。『山陽公載記』に、『このとき献帝は南塢(なんう)にあり、李傕は北塢にいた。李傕の左耳に流れ矢が当たり、(盾にするため)献帝を迎えて北塢に行幸させようとした。献帝が承知しなかったため、(李傕は)無理強いして行幸させた』とある」ともいう。

【04月】
大日照りがあった。
『後漢書』(献帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【夏】
曹操が、鉅野(きょや)の呂布配下の薛蘭(せつらん)と李封(りほう)を攻める。呂布が救援に駆けつけたものの、薛蘭は敗れて斬られ、呂布も逃げた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
呂布が、陳宮(ちんきゅう)とともに再び1万余人をひきい、東緡(とうびん)から曹操に攻めかかる。しかし曹操の伏兵や奇襲を受けて大敗し、夜に紛れて逃げた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が再び定陶を攻めて陥し、兵を分けて諸県を平定する。呂布は、東の徐州(じょしゅう)にいた劉備(りゅうび)のもとに奔った。張邈(ちょうばく)は呂布に付き従う一方、弟の張超(ちょうちょう)に命じ、家族とともに雍丘(ようきゅう)を守らせた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【05月】
李傕が、自ら大司馬(だいしば)に就任する。
『後漢書』(献帝紀)

【06月】
張済(ちょうせい)が陝県(せんけん)から駆けつけ、李傕と郭汜を和解させる。
『後漢書』(献帝紀)

【07月】
甲子(こうし)の日(?日)
献帝が、洛陽(らくよう)への還幸を決める。郭汜は、自ら車騎将軍(しゃきしょうぐん)に就任。楊定(ようてい)を後将軍(こうしょうぐん)、楊奉(ようほう)を興義将軍(こうぎしょうぐん)、董承(とうしょう)を安集将軍(あんしゅうしょうぐん)と、それぞれしたうえ、献帝の乗輿(じょうよ)を送らせた。張済は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)となり、陝県に戻って駐屯した。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】
曹操が、雍丘の張超を包囲する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【08月】
甲辰(こうしん)の日(6日)
献帝が新豊県(しんぽうけん)に行幸する。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
朱治(しゅち)が呉郡太守(ごぐんたいしゅ)の許貢(きょこう)を追い払い、呉郡を乗っ取る。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
この年、袁紹(えんしょう)が部将の麴義(きくぎ)を遣わし、鮑丘(ほうきゅう)で公孫瓚(こうそんさん)と戦った。この戦いでは公孫瓚が大敗した。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「鮑丘は河川の名であり、北塞中より流れ出て、南は九荘嶺(きゅうそうれい)の東を経る。俗にこれを大楡河(たいゆが)という。また東南に進むと、漁陽県(ぎょようけん)の故城の東を経るが、ここが公孫瓚が戦った跡である。これらは『水経注(すいけいちゅう)』に見える」という。

⇒?月
袁紹が臧洪(そうこう)を攻め殺し、鮑丘では公孫瓚を討ち破る。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
献帝が、曹操を兗州牧(えんしゅうぼく)に任ずる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【10月】
戊戌(ぼじゅつ)の日(1日)
郭汜が部将の伍習(ごしゅう)を遣わし、夜陰に乗じて、献帝が行幸している学舎を焼き、その乗輿を自軍に引き込むよう命ずる。しかし、楊定と楊奉が郭汜軍と戦い、これを討ち破った。
『後漢書』(献帝紀)

【10月】
壬寅(じんいん)の日(5日)
献帝が華陰県(かいんけん)に行幸し、道の南に野営する。この夜、赤気が紫宮(しきゅう)を貫いた。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』に、『赤気の大きさは6~7尺(せき)。東は(東北東である)寅(いん)の地まで、西は(西北西である)戌(じゅつ)の地まで至った』とある」という。

【10月】
張済が再び反乱を起こし、李傕・郭汜と合流する。
『後漢書』(献帝紀)

【11月】
庚午(こうご)の日(3日)
李傕と郭汜らが献帝の乗輿を追撃し、東澗(とうかん)で戦う。献帝側は大敗し、光禄勲(こうろくくん)の鄧泉(とうせん)、衛尉(えいい)の士孫瑞(しそんずい)、廷尉(ていい)の宣播(せんは)、大長秋(だいちょうしゅう)の苗祀(びょうし)、歩兵校尉(ほへいこうい)の魏桀(ぎけつ)、侍中(じちゅう)の朱展(しゅてん)、射声校尉(せきせいこうい)の沮儁(しょしゅん)が戦死した。
『後漢書』(献帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「鄧泉は光禄勲。東澗での敗戦の際に戦死したこと以外の詳細は不明である。なお『後漢書』(五行志〈ごぎょうし〉)では鄧淵(とうえん)に作り、おそらくこちらが正しい。李賢が唐(とう)の建国者である李淵(りえん)の諱(いみな)を避けたであろうからである」という。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「士孫瑞は右扶風(ゆうふふう)の人。あざなを君策(くんさく)。ただし『三国志』(魏書・董卓伝〈とうたくでん〉)に付された『李傕・郭汜伝』の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『献帝紀』では君栄(くんえい)。王允(おういん)と謀って董卓を暗殺した。献帝に付き従って洛陽に向かう途中、李傕・郭汜らの兵に殺された」という。

李賢注および『全譯後漢書 第2冊』の補注によると、「宣播は廷尉。『後漢書』(五行志)や『後漢書』(董卓伝)では宣璠(せんはん)に作る。かつて司隷校尉(しれいこうい)を務めていた。東澗での敗戦の際に戦死した」という。

【冬】
献帝が、李傕と郭汜らに追撃され、曹陽(そうよう)で敗れる。
『三国志』(魏書・袁術伝〈えんじゅつでん〉)

⇒11月
壬申(じんしん)の日(5日)
献帝が曹陽県に行幸し、田の中で野営する。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「曹陽は谷の名であり、唐の陝州(せんしゅう)の西南7里にあり、俗にこれを七里澗(しちりかん)という。また崔浩(さいこう)が、『南山(なんざん)より北は黄河(こうが)にまで通じている』という」ともある。

さらに『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「曹陽は献帝が東に帰るときに敗れた場所であり、後に曹操が好陽(こうよう)と改めた」という。

【11月】
楊奉と董承が、白波賊(はくはぞく)の帥である胡才(こさい)・李楽(りがく)・韓暹(かんせん)および匈奴(きょうど)の左賢王(さけんおう)である去卑(きょひ)を引き入れ、軍をひきいて献帝を奉迎する。彼らは李傕らと戦い、これを討ち破った。
『後漢書』(献帝紀)

【12月】
庚辰(こうしん)の日(?日)
献帝の車駕(しゃが)がようやく進んだものの、再び李傕らが来襲したため戦い、献帝側が大敗。付き従う宮女たちは殺されたりさらわれたりし、少府(しょうふ)の田芬(でんふん)や大司農(だいしのう)の張義(ちょうぎ)らが戦死した。
『後漢書』(献帝紀)

【12月】
献帝が陝県に行幸し、夜のうちに黄河を渡る。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
この年、長安に動乱が起こり、献帝が東に遷る。しかし、曹陽で李傕と郭汜らの追撃を受け、さらに黄河を渡って安邑(あんゆう)に行幸した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒12月
乙亥の日
献帝が安邑県に行幸する。
『後漢書』(献帝紀)

【12月】
曹操が雍丘を陥し、張超は自殺する。城にいた張邈の三族も処刑された。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒12月
曹操が雍丘を陥す。張超は自殺、張邈の三族は皆殺しにされ、張邈自身も部下の手にかかって死んだ。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)の『三国志』年表

【?月】
曹操が東方に向かい、陳(ちん)を攻略する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
この年、献帝が、(会稽郡〈かいけいぐん〉の諸曁県〈しょきけん〉を)分割して呉寧県(ごねいけん)を設置した。
『後漢書』(郡国志)の劉昭注に引く『越絶書(えつぜつしょ)』

【?月】
この年、献帝が呉郡太守の許貢の上奏を容れ、(呉郡の烏程〈うてい〉)県を分割して永県(えいけん)を設置した。
『後漢書』(郡国志)の劉昭注に引く『呉興記(ごこうき)』

特記事項

「この年(195年)に亡くなったとされる人物」
皇甫嵩(こうほすう)朱儁(しゅしゅん)張超(ちょうちょう)B ※張邈Bの弟張邈(ちょうばく)B ※張超Bの兄劉繇(りゅうよう)

「この年(195年)に生まれたとされる人物」
王粛(おうしゅく)龔禄(きょうろく)曹彪(そうひゅう)孫奐(そんかん)

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました