-219年- 己亥(きがい)
【漢】 建安(けんあん)24年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
曹操(そうそう)配下の曹仁(そうじん)が宛(えん)を陥し、反乱を起こしていた侯音(こうおん)を斬る。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)
【?月】「夏侯淵(かこうえん)の死」
曹操配下の夏侯淵が、陽平(ようへい)で劉備軍(りゅうびぐん)と戦って戦死する。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒春
劉備が、陽平関から南下して沔水(べんすい)を渡り、山に沿いつつ前進し、定軍山(ていぐんざん)に陣営を築く。曹操配下の夏侯淵が来攻し、その地の争奪戦が演じられた。
劉備は、黄忠(こうちゅう)に命じて高所に登らせ、陣太鼓を打ち鳴らして夏侯淵を攻めさせ、夏侯淵や、曹操が任命した益州刺史(えきしゅうしし)の趙顒(ちょうぎょう)らを斬り殺した。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)
⇒01月
劉備配下の黄忠が、曹操配下の夏侯淵を斬る。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
【02月】
壬子(じんし)の日(30日)、晦(かい)
日食が起こる。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)
【03月】
曹操が、長安(ちょうあん)から斜谷(やこく)を抜け、陽平に到着する。劉備は要害を盾に抵抗した。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★『九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)』…曹操が「鶏肋(けいろく)」という布令を出した際、主簿(しゅぼ)の楊脩(ようしゅう)が帰還の意図を読み解いた話。
⇒03月
曹操が、漢中(かんちゅう)で劉備と対峙(たいじ)する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)の『三国志』年表
【05月】
曹操が軍を引き揚げ、長安に帰還する。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒05月
劉備が(曹操から)漢中を奪う。
『後漢書』(献帝紀)
⇒05月
曹操が漢中から撤退する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【07月】
曹操が、卞氏(べんし)を魏(ぎ)の王后に立てる。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【07月】
曹操が于禁(うきん)を遣わし、樊城(はんじょう)の曹仁を援けて、劉備配下の関羽(かんう)を攻めるよう命ずる。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【秋】「漢中王(かんちゅうおう)劉備」
劉備配下の群臣が、劉備を漢中王に推挙する旨を献帝に上表する。
『三国志』(蜀書・先主伝)
⇒07月
庚子(こうし)の日(?日)
劉備が、自ら漢中王を称する。
『後漢書』(献帝紀)
⇒07月
劉備が自ら漢中王を称し、息子の劉禅(りゅうぜん)を王太子に立てる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【08月】
漢水(かんすい)が氾濫し、曹操配下の于禁の陣が水没する。劉備配下の関羽は于禁を捕らえたうえ、樊城の曹仁を包囲した。曹操は、さらに徐晃(じょこう)を救援に差し向けた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒08月
漢水が氾濫する。
『後漢書』(献帝紀)
⇒08月
劉備配下の関羽が樊城の曹仁を包囲し、于禁を降す。しかし、救援に駆けつけた曹操配下の徐晃に敗れる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【09月】「魏諷(ぎふう)の反乱」
曹操配下の西曹掾(せいそうえん)の魏諷が、反乱を企てたものの未遂に終わる。魏の相国(しょうこく)の鍾繇(しょうよう)が、この事件に連座して罷免された。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★『世語(せいご)』…魏諷とこのときの反乱計画について。
⇒?月
曹操配下の魏諷がクーデターを謀り、曹丕(そうひ)に誅殺される。魏の相国の鍾繇が、この事件に連座して罷免された。
『正史 三国志8』の年表
【10月】
曹操が、軍をひきいて洛陽(らくよう)に帰還する。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★ここで「『曹瞞伝(そうまんでん)』にいう」として、「このとき曹操は、改めて洛陽北部尉(らくようほくぶい)の役所を修理し、旧来のものより立派にした」ともある。
【?月】
孫権(そんけん)が、曹操のもとに使者を遣わして上奏文を奉り、「関羽を討伐することで忠誠を示したい」と述べる。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★ここで「『魏略』にいう」として、「曹操は、孫権が自ら臣と称した上奏文を、外部の者に示して言った……」ともあるので、どうやら洛陽にいた曹操のところへ、孫権が上奏文を送ってきたという解釈らしい。
【閏10月】
孫権が関羽討伐の軍を動かし、先に呂蒙(りょもう)を遣わして公安(こうあん)を襲わせ、劉備配下の将軍の士仁(しじん)を捕虜にした。さらに呂蒙が南郡(なんぐん)まで進むと、劉備配下の南郡太守の麋芳(びほう)は、城を挙げて降伏した。
呂蒙は江陵(こうりょう)に本営を置き、その地の老人や幼少者を慈しむことで人々の心を和らげ、捕らえられていた曹操配下の于禁を解放した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)
⇒?月
孫権が関羽討伐の軍を動かし、その配下の呂蒙が、関羽の根拠地であった南郡を占領する。これにより関羽の軍はバラバラになった。
『正史 三国志8』の年表
⇒10月
孫権が曹操と通じ、配下の呂蒙に江陵を襲わせて占拠する。劉備配下の関羽がひきいていた兵士たちは、意気阻喪して四散した。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』の『三国志』年表
【?月】
曹操が、関羽討伐のため洛陽から南下したものの、その到着前に徐晃が関羽を攻め破る。関羽が逃走したため、樊城の曹仁の包囲も自然に解けた。曹操は摩陂(まひ)に駐留した。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』…夏侯惇(かこうとん)が曹操に、天意に応えて民心に従う(帝位に即く)よう勧めた話。
【11月】
孫権が(劉備から)荊州(けいしゅう)を奪う。
『後漢書』(献帝紀)
【11月】
劉備配下の関羽が麦城(ばくじょう)に入る。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【12月】「関羽・関平(かんぺい)の死」
孫権配下の潘璋(はんしょう)のもとで司馬(しば)を務める馬忠(ばちゅう)が、章郷(しょうきょう)で関羽と息子の関平、さらに都督(ととく)の趙累(ちょうるい)らを捕らえる。
『三国志』(呉書・呉主伝)
⇒12月
関羽と関平が捕らえられ、ふたりとも斬られる。
『正史 三国志8』の年表
【?月】
この年、疫病が流行したため、荊州の租税がすべて免除された。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【?月】
この年、曹操が献帝に上表し、孫権を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任じて仮節(かせつ)としたうえ、荊州牧(けいしゅうぼく)を兼ねさせ、南昌侯(なんしょうこう)に封ぜられるよう取り計らった。
これに対して孫権は、校尉(こうい)の梁寓(りょうぐう)を遣わし、漢(かん)の朝廷に献上品を捧げる一方、それと同時に、王惇(おうとん)に馬の買い入れを命ずる。また、捕らえていた曹操配下の朱光(しゅこう)らを釈放して送り帰した。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【?月】
この年、孫権が、(南郡の)巫県(ふけん)・秭帰(しき)の両県を分けて固陵郡(こりょうぐん)を設置した。
『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)に引く『魏氏春秋』
【?月】「呂蒙の死」
この年、孫権配下の呂蒙が病死した。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表
特記事項
「この年(219年)に亡くなったとされる人物」
夏侯栄(かこうえい)・夏侯淵(かこうえん)・関羽(かんう)・魏諷(ぎふう)・蔣欽(しょうきん)・曹均(そうきん)・孫皎(そんこう)・龐悳(ほうとく。龐徳)・楊脩(ようしゅう)・陸績(りくせき)・呂蒙(りょもう)
「この年(219年)に生まれたとされる人物」
孫峻(そんしゅん)
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