280年(〈晋の咸寧6年〉→太康元年・呉の天紀4年)の主な出来事

-280年- 庚子(こうし)
【晋】 (咸寧〈かんねい〉6年) → 太康(たいこう)元年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 天紀(てんき)4年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉) → 晋に降伏し滅亡

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月別および季節別の主な出来事

【春】
呉(ご)の孫晧が、11人の息子を中山王(ちゅうざんおう)や代王(だいおう)などの王に封じたうえ、大赦を行う。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)

273年9月の記事および278年7月の記事と同様に、ここでも孫晧の息子たちの名は出てこなかった。そのころから「息子たち11人」とあり、数が変わっていないので、新たに王に封じたというよりも、移封したという意味合いが強いのだろう。

【春】「呉の崩壊」
晋(しん)の王濬(おうしゅん)や唐彬(とうひん)が呉に攻め寄せると、呉軍は雪崩を打って崩壊する。

また晋の杜預(とよ)も、呉の江陵督(こうりょうとく)の伍延(ごえん)を斬り、晋の王渾(おうこん)も、呉の丞相(じょうしょう)の張悌(ちょうてい)と丹楊太守(たんようたいしゅ)の沈瑩(しんえい)らを斬るなど、晋軍は至るところで勝利を収めた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『晋紀(しんき)』…このときの戦いの様子。

『襄陽記(じょうようき)』と『呉録(ごろく)』…張悌について。

『捜神記(そうじんき)』…従軍中に病死した柳栄(りゅうえい)が生き返ったという話。

杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

【03月】
丙寅(へいいん)の日(2月9日?)
呉の孫晧が岑昬(しんこん)を処刑する。殿中の親近者たち数百人が叩頭(こうとう)して、孫晧に「岑昬を誅殺されますように」と乞うたことによるもの。孫晧は震え上がり、彼らの言う通りにした。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『晋紀』…このときの様子。

『正史 三国志6』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「この記事以下、呉の滅亡時の一連の干支(かんし)は、本年(280年)3月としてはあり得ないものである」としたうえで、「『晋書(しんじょ)』では、それを3月に適合するように干支を書き改めているが、ここでは疑問のまま残した」という。

【03月】
戊辰(ぼしん)の日(2月11日?)
呉の陶濬(とうしゅん)が武昌(ぶしょう)から帰還する。孫晧は陶濬を引見した後、残った部隊をひとつにまとめ、彼に節(せつ。権限を示すしるし)と鉞(えつ。まさかり。軍権の象徴)を授けた。

陶濬の軍勢は、翌日に出発する予定だったが、その夜のうちに兵士たちはみな逃亡してしまった。しかも晋の王濬のひきいる水軍は、長江の流れに乗って到着間近であり、司馬伷(しばちゅう)や王渾らの軍勢も、都(建業〈けんぎょう〉)の近くまで迫っていた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【03月】
(2月?日)
呉の孫晧が、光禄勲(こうろくくん)の薛瑩(せつえい)や中書令(ちゅうしょれい)の胡沖(こちゅう)らの意見を容れ、晋の王濬・司馬伷・王渾それぞれに使者を遣わし、降伏の意思を書簡で伝える。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

ここでは干支についての記述はなかった。

『江表伝(こうひょうでん)』…滅亡を前にした孫晧が、舅(おじ。母の弟)の何植(かしょく)や群臣に送ったという手紙について。

【03月】「孫晧の降伏と呉の滅亡」
壬申(じんしん)の日(2月15日?)
晋の王濬が先頭を切り、呉の都(建業)まで軍勢を進める。都(建業)に入った王濬は、孫晧の降伏を認め、孫晧が降伏のしるしとして、自らを縛っていた縄をほどいてやったうえ、孫晧が用意していた柩(ひつぎ)を焼き、本陣に招いて会見した。

晋の司馬伷は、孫晧が自分のもとに印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を差し出したことを理由に、自分の部下たちに、孫晧を晋の都(洛陽〈らくよう〉)まで護送するよう命じた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『晋陽秋(しんようしゅう)』…このとき晋の王濬が呉の孫晧から受け取った、呉国の地図や戸籍について。

『正史 三国志6』の訳者注によると、「敗れた主君は後ろ手に縛られ、口には璧(へき)を含み、喪服を着け、棺桶(かんおけ)を用意して戦勝者の前に出るのが降伏の際の儀礼だった」といい、「『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』(僖公〈きこう〉6年)を参照」ともあった。

【04月】「帰命侯孫晧」
甲申(こうしん)の日(28日)
晋の司馬炎が詔(みことのり)を下し、降伏した孫晧を帰命侯に封ずる。

さらに孫晧に生活の糧(かて)として、衣服と車馬、田地30頃(けい)を与えたうえ、毎年、穀物5千石(せき)、銭50万、絹500匹、綿500斤を給付するよう命じた。

また、孫晧の皇太子であった孫瑾(そんきん)を中郎(ちゅうろう)に任じ、そのほかの息子たちのうち、王に封ぜられていた者を郎中(ろうちゅう)に任じた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『捜神記』…呉の永安(えいあん)2(259)年3月に現れた不思議な子ども(その正体は熒惑星〈けいわくせい。火星〉だったという)の話。

『晋紀』…吾彦(ごげん)の進言と尚広(しょうこう)の占いについての話。

【04月】「晋の改元」
晋の司馬炎が、「咸寧」を「太康」と改元する。
『正史 三国志8』(小南一郎訳 ちくま学芸文庫)の年表

⇒04月
晋の司馬炎が、「咸寧」を「太康」と改元する。また州郡の軍備を撤廃し、兵士を帰農させる(ただし大郡には100人、小郡には50人の武吏を残した。反乱が起きたときは中央の禁軍が出動する)。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【05月】
丁亥(ていがい)の日(1日)
孫晧とその一族が、晋の都(洛陽)に到着する。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

⇒05月
晋の司馬炎から帰命侯に封ぜられた孫晧が、洛陽に護送されてくる。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
この年、東夷(とうい)の20か国が晋に朝貢した。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(280年)に亡くなったとされる人物」
虞忠(ぐちゅう)胡威(こい)岑昬(しんこん)孫歆(そんきん)?孫震(そんしん)張悌(ちょうてい)

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