-264年- 甲申(こうしん)
【魏】 (景元〈けいげん〉5年) → 咸熙(かんき)元年 ※元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉)
【呉】 (永安〈えいあん〉7年) → 元興(げんこう)元年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉) → 帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
壬戌(じんじゅつ)の日(1日)
魏(ぎ)の曹奐が囚人護送車を差し向け、太尉(たいい)の鄧艾(とうがい)を召還する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉)
⇒01月
魏の曹奐が、鄧艾の逮捕令を出し、鍾会(しょうかい)や賈充(かじゅう)に命じて軍を進めさせるとともに、司馬昭(しばしょう)も長安(ちょうあん)に向かわせる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
⇒01月
魏の鍾会が、「鄧艾に異志がある」と誣告(ぶこく)する。これを受けて、鄧艾は檻車(かんしゃ)で召還されることになり、司馬昭も長安に向かった。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
【01月】
甲子(こうし)の日(3日)
魏の曹奐が長安に行幸する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【01月】
壬申(じんしん)の日(11日)
魏の曹奐が、華山(かざん)に使者を遣わし、璧(へき)と絹を捧げて祭る。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【01月】「鄧艾・鍾会・姜維(きょうい)の死」
魏の司徒(しと)の鍾会が、蜀(しょく)で反乱を起こしたものの、配下の兵士たちに殺害された。また、太尉の鄧艾も殺害された。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
⇒?月
魏の衛瓘(えいかん)が成都(せいと)に入り、鄧艾を捕縛する。鄧艾は都(洛陽〈らくよう〉)に護送された。
『正史 三国志8』の年表
⇒?月
魏の鍾会が、姜維や蜀の残存勢力と結んで司馬昭に背く。しかし内輪もめを起こした末に、鍾会・姜維とも殺害された。
『正史 三国志8』の年表
⇒01月
15日
魏の鍾会が「郭太后(かくたいこう)の遺令あり」と偽って、司馬昭を討つと宣言する。鍾会に魏将を殺害させた後、その鍾会を殺害して蜀の再興を図ろうとした姜維も計画に加わる。
しかし計画は失敗し、鍾会・姜維ともに殺害された。また鄧艾も、衛瓘の命令を受けた田続(でんしょく)の手にかかって殺害された。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【01月】
呉(ご)の孫休が大赦を行う。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝〈そんきゅうでん〉)
【02月】
辛卯(しんぼう)の日(1日)
魏の曹奐が、益州(えきしゅう)に在任する者の罪を特に許す。
庚申(こうしん)の日(30日)
魏の曹奐が、明元郭后(めいげんかくこう。郭氏)の葬儀を執り行う。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
★『三国志』(明元郭皇后伝〈めいげんかくこうごうでん〉)…このとき明元郭后は、高平陵(こうへいりょう。曹叡〈そうえい〉の陵)の西に埋葬された。
【02月】
呉の鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)の陸抗(りくこう)、撫軍将軍(ぶぐんしょうぐん)の歩協(ほきょう)、征西将軍(せいせいしょうぐん)の留平(りゅうへい)、建平太守(けんぺいたいしゅ)の盛曼(せいまん)らが軍勢をひきい、巴東(はとう)の守備隊長を務めていた羅憲(らけん)を包囲する。
『三国志』(呉書・孫休伝)
⇒?月
呉の孫休が蜀の亡国に乗じ、蜀の故地に兵を進めようとする。しかし、巴東太守(はとうたいしゅ)の羅憲がこれを阻止した。
『正史 三国志8』の年表
⇒02月
呉の陸抗・留平らが、蜀の巴東監軍(はとうかんぐん)の羅憲を包囲する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【03月】「晋王(しんおう)司馬昭」
丁丑(ていちゅう)の日(17日)
魏の曹奐が、司空(しくう)の王祥(おうしょう)を太尉に、征北将軍(せいほくしょうぐん)の何曾(かそう)を司徒に、尚書左僕射(しょうしょさぼくや)の荀顗(じゅんぎ)を司空に、それぞれ任ずる。
己卯(きぼう)の日(19日)
魏の曹奐が、司馬昭の爵位を晋公(しんこう)から晋王に進めたうえ、10郡を加増し、以前の領地と合わせて20郡とする。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
★『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…太尉の王祥、司徒の何曾、司空の荀顗の司馬昭への拝礼を巡るやり取り。
【03月】「安楽公(あんらくこう)劉禅(りゅうぜん)」
丁亥(ていがい)の日(27日)
魏の曹奐が、先(263年11月)に降伏した劉禅を安楽公に封ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
⇒03月
丁亥の日
魏の曹奐が、劉禅を安楽県公に封ずる。領地は1万戸。さらに絹1万匹と奴婢(ぬひ)100人を与え、ほかの下賜品もこれに比例した。
劉禅の子孫で三都尉(さんとい。奉車都尉〈ほうしゃとい〉・駙馬都尉〈ふばとい〉・騎都尉〈きとい〉)に任ぜられ、侯に封ぜられた者は50人余りに上った。
また、劉禅に仕えていた尚書令(しょうしょれい)の樊建(はんけん)、侍中(じちゅう)の張紹(ちょうしょう)、光禄大夫(こうろくたいふ)の譙周(しょうしゅう)、秘書令(ひしょれい)の郤正(げきせい)、殿中督(でんちゅうとく)の張通(ちょうとう)も、みな列侯(れっこう)に封ぜられた。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)
【04月】
魏の新附督(しんぷとく。呉から魏に寝返った者たちで編制された部隊の隊長)の王稚(おうち)が、海から呉の句章(こうしょう)に侵入し、その地の長官を捕虜にしたうえ、財貨や男女200余人を略奪する。
これを呉の将軍の孫越(そんえつ)が迎え撃ち、船1隻を拿捕(だほ)し、30人を捕虜にした。
『三国志』(呉書・孫休伝)
【05月】
庚申の日(1日)
魏の相国(しょうこく)の司馬昭が、「五等の爵位制度(公〈こう〉・侯〈こう〉・伯〈はく〉・子〈し〉・男〈だん〉)」の復活を求める上奏を行う。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
⇒?月
この年、魏の曹奐が「五等爵制」を創設。公・侯・伯・子・男という五等の爵位を、全官僚の約1割に及ぶ600名以上に賜与する。官位が世襲できなかったのに対し、爵位は世襲が認められたため、こののち五等爵を得た名士が貴族階層を形成することになった。
『三国志事典』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉著 大修館書店)
【05月】「魏の改元」
甲戌(こうじゅつ)の日(15日)
魏の曹奐が、「景元」を「咸熙」と改元する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【05月】
癸未(きび)の日(24日)
魏の曹奐が、亡き舞陽宣文侯(ぶようせんぶんこう)の司馬懿(しばい)を晋(しん)の宣王(せんのう)に、同じく亡き舞陽忠武侯(ぶようちゅうぶこう)の司馬師(しばし)を晋の景王(けいおう)に、それぞれ改めて追封する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【06月】
魏の鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の衛瓘が、成都県(せいとけん)で手に入れた璧と玉印、各1顆(か)を曹奐に献上する。なお、この璧と玉印に刻まれた文字は「成信」とあるようだった。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
★ここで「孫盛(そんせい)はいう」として、「むかし公孫述(こうそんじゅつ)は成都から身を起こしたため、国号を『成(せい)』と号していた。この璧と玉印の文字は、おそらく公孫述が刻ませたものであろう」とある。
【?月】
先に魏が蜀を平定した後、呉の軍勢が侵入して永安(えいあん)に迫った。魏の曹奐は、荊州(けいしゅう)・豫州(よしゅう)の両州の諸軍を救援に差し向けた。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【07月】
呉の海塩(かいえん)が海賊に襲われ、司塩校尉(しえんこうい)の駱秀(らくしゅう)が殺害される。
孫休は、中書郎(ちゅうしょろう)の劉川(りゅうせん)に命じ、廬陵(ろりょう)の兵を動かして海塩の救援に向かわせた。
『三国志』(呉書・孫休伝)
【07月】
呉の平民の張節(ちょうせつ)らが豫章(よしょう)で反乱を起こし、これに加わる者が1万余にも上る。
『三国志』(呉書・孫休伝)
【07月】
魏の永安に迫っていた呉軍が、すべて退却する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
⇒07月
魏の曹奐が、将軍の胡烈(これつ)に命じ、歩騎2万で西陵(せいりょう)に侵入させ、羅憲を助ける。このため西陵を包囲していた呉の陸抗らは、軍をまとめて引き揚げた。
『三国志』(呉書・孫休伝)
⇒07月
魏の胡烈ひきいる援軍が来ることを知り、蜀の巴東監軍の羅憲を包囲していた呉の陸抗・留平らが退却する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【07月】「広州(こうしゅう)の再設置」
呉の孫休が、再び交州(こうしゅう)を分割して広州を設置する。
『三国志』(呉書・孫休伝)
【07月】
壬午(じんご)の日(24日)
呉の孫休が大赦を行う。
『三国志』(呉書・孫休伝)
【07月】「孫休の崩御(ほうぎょ)」
癸未の日(25日)
呉の孫休が崩御する。このとき30歳だった。孫休は景皇帝(けいこうてい)と諡(おくりな)された。
『三国志』(呉書・孫休伝)
★『江表伝(こうひょうでん)』…孫休が重体になった際、丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)に皇太子の孫ワン(そんわん。雨+單)と後事を託した話。
★『抱朴子(ほうぼくし)』…孫休の時代、広陵(こうりょう)で掘り返された王公の墳墓から見つかったという遺骸の話。
★『正史 三国志6』(小南一郎訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「上にある『抱朴子』の記事は、『太平御覧(たいへいぎょらん)』(55)などにも『抱朴子』の文として引用されるが、現行の『抱朴子』には見えない。また、20巻本『捜神記(そうじんき)』(巻15)にも同様の記事が見える」という。
【07月】「孫晧(そんこう)の即位と呉の改元」
呉の孫晧が帝位に即く。このとき23歳だった。孫晧は「永安」を「元興」と改元したうえ、大赦を行った。
『三国志』(呉書・孫晧伝〈そんこうでん〉)
【08月】
庚寅(こういん)の日(3日)
魏の曹奐が、中撫軍(ちゅうぶぐん)の司馬炎(しばえん)に相国(司馬昭)の補佐を命ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【08月】
癸巳(きし)の日(6日)
魏の曹奐が詔(みことのり)を下し、先の鍾会の反乱鎮圧に功績があった、相国左司馬(しょうこくさしば)の夏侯和(かこうか)と中領軍司馬(ちゅうりょうぐんしば)の賈輔(かほ)を郷侯(きょうこう)に、郎中(ろうちゅう)の羊琇(ようしゅう)と騎士曹属(きしそうぞく)の朱撫(しゅぶ)を関内侯(かんだいこう)に、それぞれ封じ、散将(さんしょう)の王起(おうき)を部曲将(ぶきょくしょう)に任ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【08月】
癸卯(きぼう)の日(16日)
魏の曹奐が、衛将軍(えいしょうぐん)の司馬望(しばぼう)を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【08月】
呉の孫晧が、上大将軍(じょうだいしょうぐん)の施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)と大将軍の丁奉(ていほう)を左右の大司馬(だいしば)に任じたうえ、張布(ちょうふ)を驃騎将軍に任じて侍中を加官する。
このほかにも多くの者の位階が進められ、恩賞が下賜された。この措置は、呉のこれまでの例と同じである。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【09月】
戊午(ぼご)の日(1日)
魏の曹奐が、中撫軍の司馬炎を撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)に任ずる。
辛未(しんび)の日(14日)
魏の曹奐が詔を下す。魏への帰順を申し出ていた呉の呂興(りょこう)について触れ、「呂興を使持節(しじせつ)・都督交趾諸軍事(ととくこうししょぐんじ)・南中大将軍(なんちゅうだいしょうぐん)に任じ、定安県侯(ていあんけんこう)に取り立てたうえ、適切に判断を下して職務を処理し、その執行後に上奏することを許す」というもの。
だが、この詔が届かないうちに、呂興は部下によって殺害された。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【09月】
呉の孫晧が、朱太后(しゅたいこう)の位を貶(おと)して景皇后(けいこうごう)とする一方、亡き父の孫和(そんか)に新たに文皇帝(ぶんこうてい)と諡したうえ、母の何氏(かし)の位を上げて皇太后とする。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
⇒?月
この年、孫晧は、亡き父の孫和に文皇帝の諡号(しごう)を追贈し、烏程(うてい)に築いた明陵(めいりょう)に改葬した。また、その墓守りのために200戸からなる園邑(えんゆう)を設置し、令(れい)と丞(じょう)を任命して陵墓の守護を命じた。
『三国志』(呉書・孫和伝)
【10月】
丁亥(ていがい)の日(1日)
魏の曹奐が詔を下す。呉への南下について触れ、かつて寿春(じゅしゅん)で捕虜になった、もと呉の配下で魏の相国参軍事(しょうこくさんぐんじ)の徐紹(じょしょう)と水曹掾(すいそうえん)の孫彧(そんいく)に、南方(呉)への帰還を命ずるもの。
これは国家の恩恵を明らかにする措置だとされ、呉への帰国にあたり、徐紹を兼散騎常侍(けんさんきじょうじ)・奉車都尉に任じたうえ、都亭侯(とていこう)に取り立て、孫彧を兼給事黄門侍郎(けんきゅうじこうもんじろう)に任じたうえ、関内侯に取り立てた。さらに、徐紹らに下賜した侍婢(じひ)や家族の同行も許した。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
⇒?月
この年、魏の相国の司馬昭が、かつて呉の寿春城を守っていて魏に降った、部将の徐紹と孫彧を呉に遣わし、時勢の成り行きを説かせ、孫晧に降伏するよう勧告した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
★『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…このとき司馬昭が孫晧に送ったという手紙について。
【10月】
丙午(へいご)の日(20日)
魏の曹奐が、撫軍大将軍・新昌郷侯(しんしょうきょうこう)の司馬炎を、晋王の司馬昭の世子に任ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【10月】
呉の孫晧が、孫休の皇太子であった孫ワンを豫章王(よしょうおう)に封じ、その弟たち3人を汝南王(じょなんおう)・梁王(りょうおう)・陳王(ちんおう)に、それぞれ封じた。また、滕氏(とうし)を皇后に立てた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
★『江表伝』…即位当初の孫晧は思いやりのある詔を下したため、呉の人々は口をそろえて明君だとたたえていたという話。
【11月】
呉の孫晧が、濮陽興と張布を誅殺する。ふたりは孫晧を迎えて帝位に即けたことを密かに後悔していたが、そのことで讒言(ざんげん)を受けて処刑された。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
⇒?月
突然、万彧(ばんいく)が「濮陽興と張布は、陛下を即位させたことを悔やんでおります」と讒言した。
これを受けて11月朔(さく。丁巳〈ていし〉の日〈1日〉)、孫晧は朝会のため参内した濮陽興と張布を捕縛させ、広州に配流するよう命じた。
さらに流刑地へ移送の途中、後から使者を遣わしてふたりを殺害させ、その一族も皆殺しにした。
『三国志』(呉書・濮陽興伝)
【12月】
呉の孫晧が、孫休を定陵(ていりょう)に葬る。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【12月】
呉の孫晧が、滕皇后(とうこうごう)の父の滕牧(とうぼく)を高密侯(こうみつこう)に封じ、舅(おじ)の何洪(かこう)ら3人も列侯に封ずる。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
【?月】
この年、魏の曹奐が屯田の官を廃止し、賦税(ふぜい)と役務を均一化する。各郡に設置していた典農(てんのう。典農中郎将〈てんのうちゅうろうしょう〉)はみな太守とし、都尉(とい。典農都尉)もみな県令(けんれい)や県長(けんちょう)とした。
また、蜀の旧民の中から魏に移住可能な者を勧誘したり、募集したりもした。これに応ずる民には2年分の食糧を給付し、20歳の者の力役や租税を免除して優遇した。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【?月】
この年、魏の曹奐のもとに、「安弥県(あんびけん)と福禄県(ふくろくけん)で嘉禾(かか。穂がたくさん付いた、おめでたい穀物)が生えた」との報告が届いた。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【?月】
この年、魏の曹奐が交趾太守(こうしたいしゅ)を任命し、交趾郡に赴任させた。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
特記事項
「この年(264年)に亡くなったとされる人物」
衛継(えいけい)・姜維(きょうい)・蔣顕(しょうけん)・蔣斌(しょうひん)・鍾会(しょうかい)・宗預(そうよ)・孫休(そんきゅう)・張布(ちょうふ)・張翼(ちょうよく)・鄧艾(とうがい)・濮陽興(ぼくようこう)・劉璿(りゅうせん)・廖化(りょうか)
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